日本人

2017年8月27日 (日)

相対化不足

日本人を一言で表すと「相対化不足」の一語に尽きる。
相対化し尽くして回帰した後に自由裁量は来る、詰まり趣味嗜好、好き嫌いの判断である。
日本人は好き嫌いの判断を恰も善悪の判断のようにすり替えるきらいがある、詰まり相対化不足の為に主観と客観を混同しているのである、客観の客観視なら猿でも出来ると筆者が繰り返し言う所以でもある。

何故日本人は美意識先行型なのか、それは聖徳太子以来のご都合主義で仏教の結論的無常論を安易に取り入れたからじゃないのか。
詰まり本来相対化し尽くしたその後に到達する自由裁量、即趣味嗜好の世界に入り込もうとするからである。
室町時代の茶の湯の心迄は日本人も哲学的にバランスが取れていたと今迄筆者は勘違いしていたのではないかとも思う、或いはその後のルネサンスがなかったからなのか。
結局趣味嗜好は自由世界でのみ楽しめると言う事である。

政治が安定して初めて趣味嗜好の世界に生きるべきところが、趣味嗜好の世界が先行してしまう不思議。
何故日本での趣味嗜好の世界が虚しいのかそれは現実逃避であるからに他ならない。
遊戯、遊山、三昧の世界に興じる事は侘び寂びしおりとは程遠い。

日本人は相対化不足の為に常に不安定な状態にあるのではないか?
とことん追求しないから常に欲求不満の状態にある、相対化し尽くして自分の哲学を持つ事だ。
相対化し尽くした後に到達する自由裁量の世界こそが普遍主義であり、自然の摂理なのではないのか。
たまたま近代文明が西洋文明だった為に不要な葛藤と軋轢を生じたのではないのか。
近代文明が普遍主義に基づきそれが自然の摂理だとしたら只それを学べば良いだけの事であり、徒らに逆らう事は意味がない。

2017年8月 1日 (火)

「理屈じゃない」の世界

RT:「「世の中きれいごとだけじゃない」とかって、得意気に言う事じゃないと思います。未来の子どもたちに綺麗な世界を渡せないって、先に生まれた者として、とても恥ずかしいことじゃないですか。」@harukazechan

「「世の中きれいごとだけじゃない」とかって、得意気に言う事じゃないと思います。」

って言うはるかぜちゃんの言葉良いよね、無垢な若者と汚れた大人の対比がこれ程鮮明に表れたのを今迄見たことがない。

「先に生まれた者として、とても恥ずかしいことじゃないですか。」

先に生まれた者、詰まり先生と名の付く方は考えるべきなのだよ。

昨日も別の件でツイしたが、

"日本人に欠けてるのはズバリこれですね、自分だけ蚊帳の外だから傷付かない、本当の事を言うと貴方も少しは大人になりなさいと言う日本人、大人しいのが大人かよ、世間の掟に逆らうのがいない、村八分がそんなに怖いか、群れから離れたくない日本人。"

大体この癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」の世界を容認しちまう日本人って狂ってるよね。
まあ正直言ってここで評論家気取りのおっさんが建前論に終始するのにも辟易させられるがね。

たまに俺も堪え切れずに内田樹大先生に歯向かったりしてる訳だが。

"日本が癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」の世界である事は昔から変わらない、それは日本には倫理規範が欠如するからだ、倫理規範が欠如する時にモラルを説くのが如何に無駄かって事をまず考える事だよ、日本は前近代、中世の未開社会なんだよ。"

以前もツイしたが、

"日本の特異体質の大部分は、全と無の間を行ったり来たりする聖俗未分離の未開性に起因する。 このオールオアナンの二分法を防ぐには個の確立が必須である、全面勝利か玉砕の二分法、美化か自虐の二分法、ネットウヨかリベサヨかの二分法皆同じだ、本音と建前の戦いとも言える、リベサヨが建前で攻めて来ればネットウヨは本音で応戦する。"

詰まり日本人が輸入のシステムを建前とし本音を温存した経緯から見ると、輸入の考え方は所謂綺麗事になる訳で、本音は依然とした「理屈じゃない」の世界なのである。

それは国会の惨状を見れば言うまでも無いが。

2017年7月29日 (土)

相対世界どっぷりの日本人

今回これだけ色々25年に亘り日本の特異体質、近代文明の淵源、普遍主義について書き捲り地べたをのたうち回り人生を捏ね繰り回し家族と縁を切ってまで国籍離脱をしハワイで一息ついていた俺のすっかりストレスが取れたというFB上の発言にストレスなんかあったの(笑)と揶揄した大学の同級生がいたので下記のようにFB上で抗議文を載せたら友録を外されてしまった。

「今回高校時代の文集の投稿をお断りしたし購入もお断りした、俺はこの25年間そこいら中に書きまくって50までは自伝も書いている、アマゾンからも3冊電子出版だが出した、人間悩みがあるから書きまくる、それを今回みたいに一言「ストレスなんてあったの(笑)」と言われてしまうのが日本人だと思っている、結局他人の事なんか一切興味がないで自分の事だけ、相対世界にどっぷり、結局日本人の友達なんてその程度だと思う、他人との比較でしか自分を測る事の出来ない日本人は不幸だと思っている、何故俺が日本人をやめたか、思想的な事もあれば家族の事もあれば病気の事もある、俺はFB始めてから理由も告げられず3人の同級生に去られているそんな時に只綺麗事で学校時代の思い出なんて書けると思うかい、そんな日本人が嫌だから国籍離脱したんだぜこちとら。
大体血液ガンで抗がん剤治療で延命してストレスが無いわきゃ無いだろうが、柳田國男の孫として生まれてサイコパスのお袋に育てられて変にならなかっただけでも幸せだと思っている、これでストレスが無いだとふざけるなって感じだ。」

ツイッターで下記のように呟いたが、

"又FBの友録から一人去った、友人を失うのはいつも同じパターン、自分と違う他人の存在が許せない日本人、これも俺の宿命だと思っている、他人には干渉しないが他人からの干渉は正面から受けて立つ、結局国籍離脱は避けられなかったって事だ、蘇生すると必ず叩かれる日本は死んだ振りをするしかない。"

以前日本の特異体質の研究していた当時の阿部謹也先生の下記の言葉を思い出してしまった。

「朝日新聞 平成十年一月十九日付夕刊でも 「伝えるということ」というコラムで以下の様に述べている。

「他者を排除する日本の根」

「中世以前からある恩や義理と結びついた複雑な人間関係がつくる『世間』は、明治以降もしっかり根づいたままだ。その解体なしに日本は変わらない、と考えている。」
「日本の社会、実は世間は、他者を排除する。盛んに国際化といわれているが、私たちが世間という時、そこには世界の人々を含んではいない。日本に暮す外国人も入ってはいない。」

阿部氏は最近の著書「日本社会で生きるということ」 の中でも更に詳しく述べられている。

「ヨーロッパ流の「個人意識」が、日本でもあるかのごとき幻想が、未だにはびこっておるわけですが、実際は、ヨーロッパ流の「個人」というものを、日本で実現するには千年のタイムラグがあり、状況の違いもあります。それよりも、日本の今「世間」のなかにある「個人」というものが、「世間」と「個」との領域を、もう少しうまく設定しながら、「個」の領域を拡げていく。「世間」の解体を、多少もたらすわけですが、「個」の領域を広げていく必要があるだろう、と思うんですね。そうしませんと、いろんな面でこれからの国際社会ではやっていけない。」」

日本人が未開なのは今回の国会のゴタゴタを見れば明らかであり、にも関わらず日本人は日本の特異体質を表層に出ている現象だけ論って原因を追究して直そうともしない、結局原因は普遍主義を拒絶しているからに他ならない。
人類普遍の原理を拒絶し、自然の摂理を無視する傲慢さ、これこそが日本が詰んでいると言う所以であり、ツイッターがエンドレスになる所以でもある。
日本人が何故此処まで頑なに普遍主義を拒絶するのか考えて見たが、それは日本人にとって普遍主義がメタフィジカ(形而上)の世界だからではないかと思った。
結局日本人は自分と向き合わないし、自分を見つめる事がないから哲学の生れようがなく、常に相対世界で生きるしかないのだ、詰まり日本人は相対世界にどっぷりなのである。
大体日本では思想と生活が全く関係ない、何故なら思想が外来だからであるとは加藤周一氏の言葉であるが、
日本人は輸入のシステムを教育システムに至るまで建前とし世間、苛めを本音として残してしまった。
客観の客観視なら猿にでも出来るというように、輸入の考え方は主観になりにくい客観なのである、詰まり建前というものは主観になりにくい客観の事を指すのである。

日本人はこの主観客観という自他の哲学に突き当たると途端に目を背ける、何故なのかそれはこの時点でメタフィジカの世界に入るからである。
日本人が猿のまま死にたくないなら自分を見つめる事である、自分がなければ始まらないのだ、個の確立こそが文明化の入り口なのである、自分を限りなく相対化して個=1を括り出す作業が個の確立である。

2017年7月15日 (土)

日本人は個の確立が出来ないから神が居ないのだ。

俺がよく自分は25年間もの間地べたをのたうち回り人生をこねくり回して得た結論がオーストラリアに帰化する事だったと言うが、常に控えめに書いているが、25年と一言で言っても只の時間の経過じゃなくて一度に沢山の本を読んで情報を闇雲にインプットしそれがこなれて出て来る迄に時間が掛かる訳で、それこそニューラルプルーリングじゃないが縦横のインデックスが繋がって初めて理解するに至る訳でそれなりの時間を要する。

教科書が無い状態で一つの目的に向かって進むのは容易な事では無い。
まさにユーレカって感じで体感する、並行して進めて来た事が一寸した切っ掛けで繋がったりする。
例えば仕事上編み出した、「国籍を超え、年齢を超え、性別を超える」のスローガンが何の事はないそれ迄追求していた普遍主義の実践だという事に気が付いたり。
最近では『ワンネス』を書いてから25年目にして結局本音と建前が主観と客観そのもので限りなく一致させるべきもので、それらが離れたまま看過するべきではない事に今更ながらに確信したりした。

例えばニコラスクザーヌスの所謂「個は全を包含する」という言葉にしろ、「一にして全なる個」という言葉を体感するのに20年以上の月日を要したりする。
大体、哲学的にリベラルであり政治的にもリベラルになれた事すらオーストラリアに帰化してから実感したものである。
内なる神を探る作業は単なる知識の集積ではない。
神体験ってのは本を読んだだけで簡単に出来るものではない。

個の確立が近代文明ひいては日本人の文明化の要である事を日本人が理解さえ出来たら状況はかなり楽になると思う。
これを平易に解説出来たらどんなに良いものかとつくづく思う、それを日本人は神が居ないから個の確立が出来ないと言ってしまったら文明化の道を断つ事になる。
そこで言いたいのが、神が居ないから個の確立が出来ないのではなく、個の確立が出来ないから神が居ないのだと。

2017年7月14日 (金)

文明化

日本が聖俗未分離の前近代社会である事、近代文明が西洋文明である事から鑑みて近代文明を構築している普遍主義を避けては通れない。
それを避けて通っているのが日本である、結局日本人は文明化したくないとも言える。
だから、近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法も普遍主義で構築されているにも関わらず憲法を守れと言うとリベサヨ扱いになる。
普遍主義(洋魂)は避けては通れないのに避けて通ろうとする、洋魂は和魂で代替出来ないのに無視する。
結局普遍主義を拒絶している事に他ならない。
和魂洋才の捻れから逃れる為には洋魂洋才の環境で帰化するしか無いのである。

科学の目的は全能性の追求であり手段は普遍性の追求である。
その両方の追及姿勢の欠如する日本では本来科学の生まれる土壌は欠如し、従って日本の科学は宗教に近い、日本人は科学教の信者であるとも言える。
だからノーベル賞受賞者の根岸さんがインタビューで「真理の探究もさる事ながら科学も大切である」と頓珍漢な事を言ってしまうのである。
科学の目的は真理の探究じゃなかったのか。

一時、普通はとか皆はとか言うと普通とは何だ全員に聞いたのかと絡む人間が跋扈した事がある、そういう人間は必ずや一般論化しないでくれと多様性を主張する、科学の手段が普遍性の追求であり、要素還元主義である以上、共通項で括り一般化しないで科学は成り立たない。

科学の手段が普遍性の追求である以上、科学者こそ普遍主義をもっと知るべきだと思う、普遍性の追求の先に自由平等博愛の考えがあるのだから。

2017年7月 4日 (火)

西洋人の神とは

(´・ω・`)「道徳的で理性的なイデオロギーへの欲求は西欧文化の一部となっている。かたや日本は理性や普遍的な道徳律よりも人間の感情や人間関係のヒエラルキーをはるかに重視している。」

昨日金ビス先生の引用ツイについ

「それを聖俗未分離の前近代社会詰まり未開の土人と呼ぶって書いてないですか?」

と反応してしまったら、

(´・ω・`)「日本には社会の外に、あるいは上にいて私たたち全てを見守っている唯一神は存在しない。その代わりに、特定の社会的情況にふさわしい行動規則や礼儀作法の複雑なシステムが機能しているのである。」

と続いた。

それに今度は、

「未開だから普遍主義の基本の自他の哲学さえ括り出せないから絶対主が居ないだけで、西欧にだって外側には神なんかは居ないでしょ、神は人間の内側に居るんだから。」

とコメツイしたら、

オランダ生まれのこの御仁に言うてくだされ⇒Ian Buruma「日本のサブカルチャー―大衆文化のヒーロー像 」

と言われてしまった。
ウォルフレンの二番煎じかと思いきや、

「もう古参かと。ジャパンスタディ界隈じゃ定番のおひとり。ライデン大学出てテラヤマの欧州公演きっかけにポンニチサブカルに興味持って、という経歴。写真撮ったり映画批評やったりあれこれやっとらすんですが、もともとジャーナリスト系ですね。」

らしい。

その後の俺のツイ、

"日本の神に関する外国人の記述を見る度に思うが彼らも如何にして神が創造されたか迄は理解してないみたいで歯痒い、何とか日本人自らの手で普遍主義を括り出して欲しいものだ。"

"未だに外人の書いた事が恰も事実かの如く流布するって日本人は恥ずかしくないのかね、結局客観の客観視なんて猿でも出来る事を鵜呑みにしてるって事だぜ。"

"でも西洋人なんて呑気でいいよな、自分らの神が外に居るなんて平然と言えるんだから。"

"日本人は自分らが未開の土人だと言うことを必死で否定するが、本音と建前を離れたままに看過してる限り文明化は望めないと気が付かない、本音は言わば主観建前は客観であり、主観を相対化して限りなく客観に近付けると言うのが自他の哲学普遍主義の基本中の基本だから。"

"でも何で日本人は一足飛びに天の神様にすがりたがるのか不思議だよね、何故自分で神様を見つけようとしないんだ、それも皆カルトばかりだぜ、そんな自分らが恥ずかしくないのか、恥さらしの文化か?"

"この倫理規範の欠如する日本で皆何を期待してるのか俺にはさっぱり理解出来ないんだよな、毎日ここに出て来てああでもないこうでもないって建前論並べ立ててりゃこの癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」社会から脱却出来るとでも思ってるのかね出来る訳ないだろうが、胸に手を当てて内なる神に聴いてみな。"

結論として言える事は西洋人も大部分は他人の創り出した神にすがっている事だよ、だから日本人も普遍主義を拒絶するだけじゃなく、自らの手で普遍主義を括り出さない限りいつ迄経っても前近代社会、未開の中世ガラパゴスジャップランドの土人のままなんだよ。

2017年7月 1日 (土)

国籍離脱の勧め

「前川さんの会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。」

と以前書いたが、

前川氏の会見ではっきりした事は彼が憲法に忠実であり、基本的にリベラルで保守と革新に分かれる建前論だという事だ。
ところが多くの日本人は普遍主義詰まりリベラルを拒絶しているのが本音なのだ。

リベサヨが建前論で攻めればネットウヨは本音で応戦する、これは建前と本音の戦いなのである。
然し残念ながら日本にリベラルの生まれる土壌はなくあくまでも建前論なのである、又ネットウヨが頑なに拘る日本は時代逆行であり近代文明を拒絶するものでお互い相容れない。

今迄は西欧化をよしとしていたので普遍主義礼賛の風潮があった、憲法前文にも人類普遍の原理と謳われていたからなのだがここに来てそれがガタガタと崩れ始めたのだ。
遂に日本人の本音が本性を現した感じである。

日本人が建前と本音を使い分ける限り日本人に文明化は望めず、和魂洋才の捻れは続くのだ。
一つ言える事は日本人は個も論も欠如するので普遍主義、その基本である自他の哲学ひいてはリベラルを導き出せないのだ、従って哲学的にリベラルを前提に保守と革新が機能する土壌も生まれないという事だ。

これが俺が国籍離脱を決意した理由だが、こんな環境に身を置いたらおかしくならない方がおかしいのだ。

何度も書いたが、西洋人は一時的に心と身体を話して科学、ひいては近代文明を発展させたが、逆に日本人は近代文明により無理矢理に心と身体を引き裂かれ一億総分裂症になった。

「和魂洋才とは外面と内面を使い分けるということである。これこそまさに精神分裂病質者が試みることである。あるいはこう言った方がよければ、ある危機的状況にあって、外面と内面との使いわけというこの防衛機制を用いることが、精神の分裂をもたらすのである。」

かの岸田秀氏も『ものぐさ精神分析学』で書いているではないか。

悪い事は言わない、狂いたくなければ日本を去る事だ。

2017年4月30日 (日)

ワンネス

最後に兄と会った時兄がこんな事を言った、

「君はお爺さんと一緒で、縦横のインデックスが繋がってないと気がすまないのよ」と、さも僕の文章を読んでいる事をほのめかすように言った。
「為ちゃんともそっくりだ、僕にはそういった所が無いから救われた」とも言った。
この「縦横のインデックスが一致しないと気が済まない」って言葉を一時多用していた事がある。
これは祖父の頭脳が恰もリレーショナルデータベースの様であり、父のそれはカード型データベース位の違いが両者の間にはあったという意味合いでだ。

「一方母から受け継いだ片意地な潔癖なども、世渡りの上には少し不便であったが、これとても子孫が似てくれないことを願うほど、悪いものとは思っていない。」

と祖父もどこかで書いていたが、自分は正義が曲げられないし、世間に阿れないし、妥協も出来ず、如何なる矛盾も受け入れられない。
普段から自分のセオリーは国籍離脱しないと完結出来ないとは言っていたものの、これが和魂洋才という最後の矛盾を取り除く事になるとまでは思い及ばなかった。

25年前に自分が一体何が気に入らないのか予備知識の入る前に書いておこうと思い、思いつくままに書き連ね500部だけ非売品として刷り、名刺がわりに配っていた『ワンネス』の最初に

「何を考えていても、何かをしていても、いつもぶち当ってしまうところ、足を引っ張ってしまうもの、何か変だなと感じるもの、まずそれを解決してから進みたい何か。 そんな事を考えている内に十年経ってしまった。 余生を如何に生きるか、これが今の私に課せられた課題である。」

と書き、それから始めた所謂自分探しの旅だが、

ワンネス

「結局私が追求してたのは、ワンネスということであり、ノーバウンダリーだった事が分かって来た。
つまり物と心の二元論を一元に持っていく、二面性のあるものを限りなく一つにするその努力だったのである。
つまり本音は建前に、主観は客観に限りなく近づける努力をする訳である。」

といつの間にか普遍主義追求の旅へと変わって行った。

思えば25年、
ワンネスに始まりワンネスで終わる、
回帰だ、
魂才一致の原則、
和魂和才の柳田國男、
和魂洋才の福沢諭吉、
両方とも敗退したので、
残るは、
洋魂洋才の内村鑑三しかいない、
哲学的にも普遍主義、
政治的にも普遍主義だ。

今回国籍喪失届を領事館に提出して初めて魂才一致が達成された事に気づいた。
普段から国籍離脱しない限り自分のセオリーは完結しないと言っていたものの、それが何故なのか明確じゃなかったのである。
これで名実ともにリベラルになれた。
面白いもので、普段モットーにしていた、国籍を超え、年齢を超え、性別を超えるというスローガンが普遍主義の実践そのものだと知ったのもかなり後になってからだし、ニコラスクザーヌスの所謂、個は全を包含する、一にして全なる個ってのを体感したのも20年掛かってるし、今回25年目にしてやっと魂才一致の原則が、25年前に書いた『ワンネス』と一緒だという事に気付いた。

祖父の霊に導かれ始まった日本の特異体質の追求は再び霊に導かれ終わり、そのまま普遍性追求へと変わって行き、ワンネスの追求に始まり国籍離脱する事で魂才一致という最後の矛盾を取り除きワンネスで完結する事が出来た。

柳田國男を学ぶのか柳田國男に学ぶのか

國男に学ぶ為には、先ず國男を学ぶ必要がある。彼を知る為には、彼のメンタリティーを知らなければならない。 彼の「知」の「技法」を学び、方法論を学び、初めて彼を学ぶ事が出来る。彼に学ぶのはそれからである。

史心 内省 実験

次の図式は柳田國男の基本的な考え方を自分なりに纏めたものです。
國男の考え方の基本
昨日 今日 明日
史心 内省 実験
過去 現在 未来

柳田國男が主張し続けた史心・内省・実験は、各々が過去・現在・未来に対応しているかのごとくに映る。
その大きなうねりの中に、昨日・今日・明日という小さな波が繰り返される。
それは、日常の小さな営みが繰り返される事が、世界の大きな営みを造り出して行くというダイナミズムである。
彼のこの思考方法を理解出来なければ、彼の壮大な考え方は理解出来ない。
これは、自分自身の昨日・今日・明日を考えずして、国の過去・現在・未来を語る事は出来ないという事である。
自分自身の昨日・今日・明日、つまり日常生活のサイクルを、史心・内省・実験のサイクルの中に置く事により、過去・現在・未来を正確に把握する、これが柳田國男が独自に編み出した認識方法なのである。
彼が、哲学は避けて通ると言いつつも、方法論は充分哲学的なのである。
内省を中心に据える事自体が、自分自身を相対化するという哲学の基本なのであり、内省により括り出された理念を実践する事が、彼の所謂実験そのものであり、未来への指針なのである。

柳田國男が和魂和才を追求してた事は逆から言えば和魂洋才への警告である、巷では民俗学は無化したという人間迄出るに至ったが、逆から言えば和魂洋才として如何にも存続し得たような他の各論こそ形骸化してしまっているのに気がついていないだけなのではないだろうか。
つまり、筆者が言うように海外の学説は全てデカルト以降の社会に対応しているのに日本人は無視するか、気が付きもしていないからである。
和魂和才を馬鹿にする人間は和魂洋才が行き詰まっている事にすら気が付かない、それはひとえに洋魂の研究が足りなかった為である。

と「個人学」の勧めでも書いたが、
柳田國男の教えは此処でも生きていた事を再認識させられた。

「私はいつでも現在にとらわれている。変化を受けた、いろいろの影響を受けた日本人を知りたいという心持をもっている。しかしそれをやっておったら研究が非常に複雑になる。なんなら今から若い人たちの見方に加わってもよいが、もとは古い旧日本だけに力を傾けていた。少しく妥協的に聞こえたかもしれぬが、私は久しいあいだ「日本人らしさ」という言葉を使っていた。若い人たちはそれを解して、西洋の文明を受けて生きておくこともその「日本人らしさ」のうちのように考えたかもしれないが、自分だけはそれを固有のもの、開港以前からあったものというつもりだった。あるいは二つに分けて、現代の日本人らしさを知るのを、第二部とでもいっておいたほうがよかったろうか。」

残念ながら柳田國男の括り出した日本人らしさは悉く近代文明にそぐわないものだったが、今迄幾多の日本人論は語られたもののこの第二部を試みた人間は居ない。
この意味でも筆者が日本の特異体質の追求に引き続き普遍性の追求を試み、洋魂洋才の環境に移住し帰化するに至ったのは我ながら感慨深いものがある。
結局最初から最後まで祖父の霊に助けられた。

2016年10月26日 (水)

ナチュラリズムとヒューマニズムのハーモニズムの勧め

これは20年近く前に纏めたものだが、この時点では考えも未だ過激ではなく何とか日本を良い方向に持って行きたいという願望が強く出ている。
何せ最初のテーマはポストモダンのエートスを求めてというもので未だポストモダンそのものを否定していなかった。
河合隼雄氏の説も日本の全体主義、個の欠如を何とか活かそうと苦労した後が見られるがこれでは世間こそが絶対となり、今の世間こそが正義と変わらないではないの?

河合隼雄氏は前掲の「日本人の心のゆくえ」 の中で、「ネットワーク・アイデンティティー」と題してこう説明される。

「西洋近代をプロモートしてきた一神論的思考(もちろん、これは一神教と同じではない)に、日本人は縛られすぎたのではないか。このあたりで、多神論的な多様性に気づかねばならない。 このような状況を破っていくこととして、『ネットワーク・アイデンティティー』ということを考えている。私という人間は唯一の存在である。

しかし、それを支え、根づかせるものとして『唯一』のものを探そうとしない。
『私』をささえるものは『ネットワーク』である。というと、私が家族とか友人とかの関係によって支えられることか、と思があろうが、それは間違いである。
それは最初に述べたように、その人との関係の喪失によってアイデンティティーが崩れ去るものである。
ここでのべている『ネットワーク』は自分の心のなかにもつものである。 これまでに述べてきた宗教的な用語を用いるならば、『私』を支えるものを『存在者』では無く『存在』と考えるのだ。
そして、『存在』はネットワークそのものだ。すべてが複雑にからみ合っている。それは多であって一である。〈中略〉
国際化が激しい時代に、日本人として生きつつ、国際社会の一員として他国の人々と対等に生き、世界に対して何らかの貢献をしようとするためには、ネットワーク・アイデンティティーということを見出す努力をするべきであると思う。」

河合氏が「存在」はネットワークそのものであると言う「存在」の追求が、全ての宗教を超えた近代文明の下における個の在り方であり、筆者が近代文明は個から全への循環するシステムであると言う所以でもある。
「IMG_3244.JPG」をダウンロード
神道自らも「個の意識が、個の意識の集合体或いは総体としての宇宙からのフィードバックにより高まり、それが社会に反映する。」と言う様な、「ネオ・シャーマニズム」とも言うべき宇宙観を導きだし、ナチュラリズムとヒューマニズムのハーモニズムを先取りする位でないと、日本に於ける文化と文明の齟齬は取り払えないのである。

「環境破壊が深刻化するわが国で、自然と人間のコミュニケーションの問題は改めて深められなければならない。そして自然と人間とが真に交流する際には、人間が「オレ」を放棄してかかることが条件であるとのアニミスティックな、あるいはシャーマニスティックな考え方再評価される必要があろう。。それは決してトランスに入れということではない。」

宗教人類学者の佐々木宏幹氏は「神と仏と日本人」 の中でこう述べている。

それともこれを近代に求めるのは無理であり、ポスト・モダンに期待する以外に無いのかも知れない。
均質化或いは共通点を見い出す、いずれも普遍性追求姿勢から生じる。 この言葉の違いを乗り越えるだけ取り上げても共通認識というものが如何に難しいかが判る。
そもそも普遍性追求姿勢の欠如するところに共通認識を期待する方が間違っているとも言えるのである。
先ずは近代を理解する事である。

筆者が図らずも括り出した近代のキーワードは、ロジック及びそれにより導き出されるインディヴィデュアルという概念であり、日本語では「論理」及び「個人」と訳されているものである。

つまり「論」と「個」である。 その上、その「論」と「個」こそが日本人の一番不得手とするものだったのである。 前述の対談の中で、柳田國男が「私はどうも自己完成っていうものはそんなに究極の目的だと思ったことは一ぺんもないんです。」といみじくも言っている様に、「自己」或は「個人」という概念に対する認識のずれがその辺から始まっているのである。

次の表はポストモダンがヒューマニズムとナチュラリズムのハーモニズムになると仮定して、私が纏めたものです。
幸か不幸か日本は聖俗未分離のままモダンを迎え(これが真の意味でのモダンと呼べるか否かは別にして)やがてポストモダンの世の中を迎えようとしています。
「IMG_3243.JPG」をダウンロード
この表を見て頂けばお判りになると思いますが、日本は丁度東と西の中間に位置し、そのままハ-モニズムに移行するのに一番都合の良い場所に位置しているのです。
今日本に何が必要なのかと言うと、スクラップアンドビルドなのです、つまりホ-リズムから一度脱却してハーモニズムにシフトするパラダイム・シフトなのです。


2016年8月14日 (日)

【復刻版】科学は宗教ではない、(原文のまま)

平成23年4月11日 

  僕にとって今回の原発事故は再度の敗戦に等しい。 今回の一件にしろ、第二次世界大戦当時の集団ヒステリアと大差ないのではないのか、以前から考えていたのだが、科学そのものが一種の宗教のようなものだと言う事で、科学を過信してる学者が如何に多いかということである。 今回の原発事故で再度考える機会を与えられたが、今はっきりしたことは、戦後天皇の人間宣言と共に拠り所を失った日本人にとって科学そのものが宗教化していたのじゃないかという事である。
  フリーメーソンの起草による日本国憲法の前文に「人類の普遍的原理」とあるが、日本にはこの普遍性追究姿勢が欠如している、つまり、日本には「国是」が無いに等しいのである。 そこで登場したのがアメリカ産のプラグマティズムであり、第二次大戦で優秀な人材を失い残っ二番手の学者共(我が父親を含む)がこぞってこのプラグマティズム所謂「科学教」に入信したみたいなものである。
  これを聖俗未分離、当たるも八卦、当たらぬも八卦、一か八かのホーリズムと呼ばないでなんと呼べばよいのだろうか。 こうしてみると、科学一辺倒の時代に育った僕が、受けた教育と社会との齟齬に如何に振り回されたのか納得が行く。 実は今回の東日本大震災の引き起こした原発騒ぎでこれ以上の追究がもう無駄なのではないのかと思い始めた。 前述の渡辺東大名誉教授の『科学史事始』以来日本の特異体質の更なる追究は止めたものの、国際個人学研究所なんてのをネットに立ち上げ、スティッカムで配信まで始めて、自分の考えを発信し続けたが、馬耳東風、特に2chなんてのは日本の世間の典型であり、匿名でたたかれ続けるのが落ちである。
  先ずは個の確立をして、内なる神を見出す事なんて悠長な事を言っている場合じゃない、近代文明が一神論の背景がなければ機能しない事を忘れるところだった。 少なくとも科学というものは真実が真っ先に来なくては行けない、真実なんて二の次で先ずは美意識からなんてお格好つけてる日本人には所詮無理なのだ。 2chとかけてなんと解く、放射能と解く、その心は、見えない敵、、なんて冗談言っている場合ではない。
  以前バブル全盛の頃、「パールハーバーで失敗したので、今回はハワイを買おうとしている日本人」なんて冗談を飛ばし、ハワイのイミグレーションで「今回の渡布目的は」なんて訊かると、「ハワイを買いに来た」なんて言ってオフィサーと大笑いした記憶が懐かしい、まさにリメンバーパールハーバーである。

その他のカテゴリー