日本人

2018年5月16日 (水)

正義のセは世間のセ

結局「御都合主義国家の終焉」でも書いたが、

1.日本は国家形成が早く統一規範としての宗教の必要性がなかった。

2.日本は海外の文化を器用に取り入れここまで発展した。

という良いとこどりならぬ都合の良いとこどりの通説が崩壊し始めたという事だ、詰まり日本は付け焼き刃の似非だという事です。

正義を曲げないと生きて行けない日本、
世間に阿らなきゃ生きて行けない日本、
妥協しなきゃ生きて行けない日本、

価値相対主義という御都合主義、
反知性主義という情緒至上主義、
忖度という世間への阿り、

皆我慢を余儀なくされている。

今回の佐川元事務次官の答弁、柳瀬元秘書官の答弁を見ていると、
今迄は弱い日本人に強く生きろって怒鳴りたくなったが、今では逆にシステムを変えない限りこの悲劇は繰り返されるとも思い始めた。

結局彼等は所属する世間の正義を貫いているだけなのである、彼等にとっては仕事をしているだけなのだ。
所謂優等生ならではの間違いなのである、見方を変えれば彼等は優等生のロールモデルでもあり同時に彼等もこの世間の被害者とも言えるのだ。

皆、正義を曲げなきゃ生きて行けない社会、世間に阿らなきゃ生きて行けない社会、妥協しなきゃ生きて行けない社会に嫌気がさしてるんじゃないのだろうか、佐川君も、柳瀬君も、前川君も一緒だと思う、何故彼等だけに正義を貫けと要求出来るのだろうか?
皆究極の選択を迫られたら世間に阿るだろうし、妥協するだろう、正義だって曲げるだろう、何せ事勿れの長いものには巻かれろの日本人なんだから、他人ばかり責めないで胸に手を当てて考えてみたらどうだ、自分なら潔く真実を述べ辞められるかって。

これなのだ、日本人が皆意地悪な原因ってのは、自分だけ要領良く生き残ろうとするから他人の不幸は我が身の幸せになるんだと思う。

頭が良いより小利口な奴等が出世する世界、安倍と麻生見てりゃ分かるだろう。

これだけ言っても、正義すら相対化する日本で、世間こそが正義であり、一番大きな世間に属する人間が必ず勝つシステムをどうにかしようとするどころか、その一番大きな世間にどうにかして入り込もうとするのが日本人なのだ。

今回財務大臣副総理迄が後で詫びて訂正したものの、個人的な意見と世間的な意見は違うと言い放った。

個人の正義は無視され世間の正義がごり押しされる社会と世間の二重構造こそが諸悪の根源である。

今回のセクハラにおける麻生大臣の発言と佐川、柳瀬の虚偽答弁の件は日本の最大の特異体質である社会と世間の二重構造を図らずも如実に捉えている、これこそが日本人の文明化を阻んでいる最大の要素と言っても過言では無い。
個の確立こそが文明化の要だという時に、未だに日本が前近代中世社会のままなのはこの社会と世間の二重構造を看過するからだ。

俺の70年の人生の完全否定もさる事ながら、現在見られる改憲騒動、右傾化等時代逆行の動きは到底受け入れられるものではなく、団塊の世代が生きた時代だけが辛うじて平和だったという皮肉な結果に終わった事は誠に残念でならない。

でも佐川と柳瀬の虚偽答弁を見ても、本人が悪いと言い続け、この世間に阿らなきゃ生きて行けないシステムを変えようともしない日本人の無責任さ、蚊帳の外症候群、当事者意識、参画意識の欠如には辟易される。
自分が同じ立場だったら正直に話すとでも言いたげではないか偽善者どもは。
幾ら阿部謹也先生が、世間を壊すのは不可能です、西欧の個人と日本の個人は違うのです、遅れではなく違う文明文化なのですと言っても、言い訳に過ぎず、個が確立出来ない限り日本は前近代、中世社会のままに変わりはない。
学者が言い訳に終始する国に未来があるわけがない。

それにしても阿部謹也先生の世間肯定論には実に失望させられた、結局日本の学者は日本の遅れを指摘してはいけないと圧力が掛かってるとしか思えない、俺の親父叔父はたまた祖父に至るまで言い訳を言わなかった学者は居ない。
普遍主義を否定してまで日本の無謬性を主張するのは間違っている。

でも正義すら相対化して世間こそが正義な社会を変えない限り、この佐川、柳瀬虚偽答弁の恥ずべき茶番は繰り返すってのに、何故もっと建設的な意見が出ないのか不思議だ日本人って生き物は。

世間を肯定する阿部謹也先生の説は、今回の麻生大臣の個人的意見と世間的な意見は違うという発言と、佐川、柳瀬虚偽発言に見られる、世間の正義が個人の正義に優先されるという正義の相対化を許容する事なので受け入れる事は到底出来ない。

近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法が制定されているにも拘らずここまで普遍主義を拒絶する。
阿部謹也先生にまで自由意志か強制か知らんが世間肯定論を吹聴させる。
日本は自由よりも寧ろ秩序を好むイスラムと同じだと以前書いたがイスラムを自由主義に改宗するのと同じ位難しい。

要するに普遍主義を否定する日本はイスラム社会と一緒、
聖俗一致で普遍主義を否定するイスラム社会、聖俗未分離で普遍主義を否定する日本、自由より寧ろ秩序を好むと言う点で似ているがイスラムは自分の意思、日本は未開だからの違い恥ずかしいとも思わない恥ずかしい人種が日本人だ。

結局近代文明が普遍主義で構築されている事実を無視してまで大学者が世間を肯定する異常さを国民が理解しないのだから絶望と言っても過言ではない
今回のような嘘がまかり通り一件があっても気が付かない馬鹿な日本人。
世間に阿らなきゃ(忖度)生きて行けないシステムを残しておいて忖度する人間を幾ら責めても何ら問題は解決しない。

矢張り何回も言うが、ここまで普遍主義を拒絶して残る統一規範は右傾化か左傾化しかないのだよ、何れにせよ自由は期待出来ないのだから、残された道は我慢するか逃げるかしかない。

俺は逃げたし、皆様にも逃げる事をお勧めする次第です。

2018年4月28日 (土)

御都合主義国家の終焉

以前「彷徨える日本人の魂」というタイトルでこんな事を書いていたのを思い出す。

「ファー・イーストでもなくファー・ウェストでもなく西と東の狭間を恰もイソップの蝙蝠の様に彷徨う日本人。 」

「ヒューマニズムでもなく、ナチュラリズムでもなく、文明と文化、インターナショナルとナショナルの狭間を彷徨い続ける。 人は物と心の間を彷徨い、全と無の間を彷徨い続ける、この何れの対比も物と心の関係なのである。 」

「これは全て独自の宇宙観の欠如から来る。 宇宙対人間の構図を追求する姿勢の欠如は人間の宇宙観(コスモロジー)を狭めてしまう。 」

「つまり、マクロ・コスモスとミクロ・コスモスの関係を明確にする論理が無い為、精神性(善と美)を統御する真(論理)、つまり物と心を繋ぐ論理が欠如するまま文明に流され続けてしまうのである。」

今回日本抜きで南北朝鮮、中国、アメリカの歩み寄りにより遂に日本はイソップの蝙蝠の様に仲間はずれになった、これは聖徳太子以来の御都合主義の終焉とも言える。

今回の右傾化騒動で、何故日本人が俺が25年掛けて括り出したあの近代文明、洋魂洋才の図に興味を示さないのか少し判った様な気がした。

何故なのだろう、それは日本人は近代文明がロジカルに構築されている事すら知らないからだ、西洋人の認識も自分等と同じ程度だと思ってるに違いない。


未開だから理解出来ない、理解出来ないから未開のままなのである。

普遍主義を拒絶して残る統一規範は右傾化か左傾化しか無い、何れにせよそこに自由は無い。
普遍主義を自然の摂理と信じる者にとって日本は住み難い国なのだ、何故か、それは日本には哲学的にリベラルと言う概念が欠如するからである。

当初柳田國男が教義の無い神道の為のバイブル作りを試みた様に、孫としては近代文明の日本語取扱説明書を創ろうと思ったのだが、日本が普遍主義を拒絶し右傾化に舵を切ってしまったので必要がなくなってしまった。

一体俺の70年の人生は何だったって思う、生まれた時から新憲法の元で教育されて科学の進歩と共に育ってまさに自由主義諸国の仲間入りが出来るとこまで来て、ドン底に突き落とされた感じだ、国籍離脱が如何に正しい決断だったか今更ながらに思う。

団塊の世代の自分は幼い時から日本国憲法の下に自由、平等、博愛を信じ、人間は科学の進歩と共に幸福になると信じて育って来たのであり今回の右傾化騒動はこれを根底から否定するものである。

俺の70年の人生も40に始めた日本の特異体質及び近代文明の研究並びに柳田國男の研究も無駄だった事になる。

普遍主義を学ぼうともせず右傾化に逃げる事は日本の終焉を意味する。
少なくとも俺の70年の人生は全て否定されたも同じである。
図を見て頂けば一目瞭然だが、近代文明は自分が無ければ始まらないのである。

結局自分の欠如する日本人は始まってもいない、大人になっていないと言う事だ。
生まれてすぐ大人になる西洋人、かたや死んでから大人になる日本人、何故か、それは日本人は自分と向き合う事を要求されないからである。

自由より寧ろ秩序を好むと言う点で、日本はイスラム社会と似ている、聖俗一致を唱え普遍主義を拒絶するイスラム社会、かたや聖俗未分離で普遍主義を拒絶する日本、その違いは大きい。

イスラムは大人であり、日本は子供だと言う事だ。

大人になりたくない症候群、ピーターパンシンドローム、自由よろ寧ろ秩序を好む。
マゾにはファッショがお似合い。
猫に小判、豚に真珠、日本人に憲法。

日本人=ネットウヨ=内弁慶=負け惜しみ=言い訳の人生=甘えの構造=天皇の赤子の構図は永遠に続く。

国の方針が普遍主義を拒絶する右傾化だとすると、幾ら普遍主義の仕組みを説いても無駄なわけで、国民が自由、平等、博愛を希求しても無理だと言う事だ。
これで日本も名実共に世間主義人民共和国になったのである。


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2018年1月27日 (土)

特別企画:「何故日本のリベラルはファッショに走るか」

自分が幾ら正論を吐いても相手がそれを即実践するのを期待するのはエゴであり、エゴは絶対に避けるべきであるというのが筆者の持論であるし、そもそも正論を吐く事すら憚れる昨今である。

今まで何度となく書いてきたし今更悪びれて言い訳に終始する詭弁を弄する日本人に真正面から真面目に対処する方がおかしいくらいの世相であるが今回の西部氏の死をある区切りとして自分なりの考え方を纏めておきたい。

今までも日本の学者は退官しないと本音を言わないとか、日本は遅れているのじゃなくて違っているのだと言い訳に終始して来た学者連中、普遍主義国でも上手く行ってないからと日本を正当化した叔父や日本にも科学はあると一言言って席を立った親父の世代の学者に嫌気がさしていたが、次の世代の渡部昇一、西尾幹二、田中英道そして今回入水された西部邁氏、ブルータスお前もかという感じである。

普遍主義は日本人にとってある種の鬼門であり、学者は一度はその壁にぶちあたる、所謂近代の超克である。
西部氏も自裁される覚悟をした後去年の暮れにウーマン村本氏にその事を話したそうだ。

筆者はたまたまバブルマネーの恩恵を受けて、10年間は何もしないで日本の特異体質を追求出来たので実にラッキーだったが普通はこうは行かない。
今の日本の学者で筆者みたいに、イタリアルネサンス、柳田國男、近代文明の淵源、普遍主義について研究出来る人間はいないのじゃないか。

筆者が会社を辞めて家に篭って日本の特異体質に想いを巡らせていた時文、渡部昇一氏は知的生活の方法の研究時、西尾幹二氏は個人主義の研究時、田中英道氏はダビンチの研究時、そして今回は西部邁氏、皆一時自分の抱えていた疑問にきっと何か答えを出して頂けると期待した面々である、全て裏切られた、 これで日本の学者を信じろと言う方がおかしい。

最初の頃は普遍主義に傷付いた全共闘の生き残りが、ナショナリズムの権化となり民俗学を駆け込み寺に利用したなどと言っていた、柳田國男は普遍主義に逆らってはいたが傷付いてはなかったとも。

少し前迄は自分は哲学的には普遍主義を採り政治的には大和民族党だと言って憚らなかったし、そこには大きな矛盾がある事も承知していると言って、矛盾を看過して生きてきた。

それを今回の改憲騒ぎで自民党草案が、前文の人類普遍の原理或いは人権条項を削除しようとしてる事を知り、日本は既に自分の居る国でないと判断して、最後の矛盾を取り除く為にオーストラリアの市民権を取り国籍離脱を果たした。

結局日本人は普遍主義を拒絶しているので、統一規範の選択肢が右傾化するか左傾化するかのどちらかしか無い。
自由が無いという意味ではどちらも社会主義である。
結局リベラルがファッショになったのではなくて、名称を変更しただけで中身は同じだって事である、結局選択肢がないと言う意味で一緒なのだ。

加計疑惑での前川氏の会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。

自分はオーストラリアに帰化する事で和魂洋才の捻れから逃れ洋魂洋才の環境で哲学的にもリベラル政治的にもリベラルを標榜出来る様になったと言ってるが、田原総一郎氏でさえ自由主義国は哲学的にリベラルでその下に政治的に保守かリベラルがあるって理解してないから日本人には無理な話なのかも知れない。

田原総一郎氏が高校生に他の国は保守とリベラルの二大政党制なのに、日本は両方ともリベラルだから対案が出せないとか説教垂れてたが、彼は以前も明治維新で西欧では一神教だから現人神にしたとか曖昧にぼかしてたけど、西欧は普遍主義つまり政治的にリベラルの元に保守と革新があると何故言わないのだ。

自由主義諸国では普通哲学的に普遍主義で、政治的に保守と革新に分かれるべきところ、
日本には哲学的にリベラルなんて概念は無い、その上日本では紛らわしい事に革新をリベラルと呼ぶから始末が悪い。
哲学的に保守で政治的にリベラルなんてあり得ない。

日本が聖俗未分離の前近代社会である事、近代文明が西洋文明である事から鑑みて近代文明を構築している普遍主義を避けては通れない。
それを避けて通っているのが日本である、結局日本人は文明化したくないとも言える。
だから、近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法も普遍主義で構築されているにも関わらず憲法を守れと言うとリベサヨ扱いになる。
普遍主義(洋魂)は避けては通れないのに避けて通ろうとする、洋魂は和魂で代替出来ないのに無視する。
結局普遍主義を拒絶している事に他ならない。
和魂洋才の捻れから逃れる為には洋魂洋才の環境で帰化するしか無いのである。

かくして、西部氏は入水し、自分は国籍離脱をしたという訳だ。

哲学的にリベラルの概念が欠如し保守だけの日本で政治的にリベラルを標榜する程馬鹿らしい事は無い。
西部氏も無くなった今、近代の超克を宮台、東野、津田、古市に出来るとも思えんし、もう日本人には何も期待出来ない絶望である

2017年8月27日 (日)

相対化不足

日本人を一言で表すと「相対化不足」の一語に尽きる。
相対化し尽くして回帰した後に自由裁量は来る、詰まり趣味嗜好、好き嫌いの判断である。
日本人は好き嫌いの判断を恰も善悪の判断のようにすり替えるきらいがある、詰まり相対化不足の為に主観と客観を混同しているのである、客観の客観視なら猿でも出来ると筆者が繰り返し言う所以でもある。

何故日本人は美意識先行型なのか、それは聖徳太子以来のご都合主義で仏教の結論的無常論を安易に取り入れたからじゃないのか。
詰まり本来相対化し尽くしたその後に到達する自由裁量、即趣味嗜好の世界に入り込もうとするからである。
室町時代の茶の湯の心迄は日本人も哲学的にバランスが取れていたと今迄筆者は勘違いしていたのではないかとも思う、或いはその後のルネサンスがなかったからなのか。
結局趣味嗜好は自由世界でのみ楽しめると言う事である。

政治が安定して初めて趣味嗜好の世界に生きるべきところが、趣味嗜好の世界が先行してしまう不思議。
何故日本での趣味嗜好の世界が虚しいのかそれは現実逃避であるからに他ならない。
遊戯、遊山、三昧の世界に興じる事は侘び寂びしおりとは程遠い。

日本人は相対化不足の為に常に不安定な状態にあるのではないか?
とことん追求しないから常に欲求不満の状態にある、相対化し尽くして自分の哲学を持つ事だ。
相対化し尽くした後に到達する自由裁量の世界こそが普遍主義であり、自然の摂理なのではないのか。
たまたま近代文明が西洋文明だった為に不要な葛藤と軋轢を生じたのではないのか。
近代文明が普遍主義に基づきそれが自然の摂理だとしたら只それを学べば良いだけの事であり、徒らに逆らう事は意味がない。

2017年8月 1日 (火)

「理屈じゃない」の世界

RT:「「世の中きれいごとだけじゃない」とかって、得意気に言う事じゃないと思います。未来の子どもたちに綺麗な世界を渡せないって、先に生まれた者として、とても恥ずかしいことじゃないですか。」@harukazechan

「「世の中きれいごとだけじゃない」とかって、得意気に言う事じゃないと思います。」

って言うはるかぜちゃんの言葉良いよね、無垢な若者と汚れた大人の対比がこれ程鮮明に表れたのを今迄見たことがない。

「先に生まれた者として、とても恥ずかしいことじゃないですか。」

先に生まれた者、詰まり先生と名の付く方は考えるべきなのだよ。

昨日も別の件でツイしたが、

"日本人に欠けてるのはズバリこれですね、自分だけ蚊帳の外だから傷付かない、本当の事を言うと貴方も少しは大人になりなさいと言う日本人、大人しいのが大人かよ、世間の掟に逆らうのがいない、村八分がそんなに怖いか、群れから離れたくない日本人。"

大体この癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」の世界を容認しちまう日本人って狂ってるよね。
まあ正直言ってここで評論家気取りのおっさんが建前論に終始するのにも辟易させられるがね。

たまに俺も堪え切れずに内田樹大先生に歯向かったりしてる訳だが。

"日本が癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」の世界である事は昔から変わらない、それは日本には倫理規範が欠如するからだ、倫理規範が欠如する時にモラルを説くのが如何に無駄かって事をまず考える事だよ、日本は前近代、中世の未開社会なんだよ。"

以前もツイしたが、

"日本の特異体質の大部分は、全と無の間を行ったり来たりする聖俗未分離の未開性に起因する。 このオールオアナンの二分法を防ぐには個の確立が必須である、全面勝利か玉砕の二分法、美化か自虐の二分法、ネットウヨかリベサヨかの二分法皆同じだ、本音と建前の戦いとも言える、リベサヨが建前で攻めて来ればネットウヨは本音で応戦する。"

詰まり日本人が輸入のシステムを建前とし本音を温存した経緯から見ると、輸入の考え方は所謂綺麗事になる訳で、本音は依然とした「理屈じゃない」の世界なのである。

それは国会の惨状を見れば言うまでも無いが。

2017年7月29日 (土)

相対世界どっぷりの日本人

今回これだけ色々25年に亘り日本の特異体質、近代文明の淵源、普遍主義について書き捲り地べたをのたうち回り人生を捏ね繰り回し家族と縁を切ってまで国籍離脱をしハワイで一息ついていた俺のすっかりストレスが取れたというFB上の発言にストレスなんかあったの(笑)と揶揄した大学の同級生がいたので下記のようにFB上で抗議文を載せたら友録を外されてしまった。

「今回高校時代の文集の投稿をお断りしたし購入もお断りした、俺はこの25年間そこいら中に書きまくって50までは自伝も書いている、アマゾンからも3冊電子出版だが出した、人間悩みがあるから書きまくる、それを今回みたいに一言「ストレスなんてあったの(笑)」と言われてしまうのが日本人だと思っている、結局他人の事なんか一切興味がないで自分の事だけ、相対世界にどっぷり、結局日本人の友達なんてその程度だと思う、他人との比較でしか自分を測る事の出来ない日本人は不幸だと思っている、何故俺が日本人をやめたか、思想的な事もあれば家族の事もあれば病気の事もある、俺はFB始めてから理由も告げられず3人の同級生に去られているそんな時に只綺麗事で学校時代の思い出なんて書けると思うかい、そんな日本人が嫌だから国籍離脱したんだぜこちとら。
大体血液ガンで抗がん剤治療で延命してストレスが無いわきゃ無いだろうが、柳田國男の孫として生まれてサイコパスのお袋に育てられて変にならなかっただけでも幸せだと思っている、これでストレスが無いだとふざけるなって感じだ。」

ツイッターで下記のように呟いたが、

"又FBの友録から一人去った、友人を失うのはいつも同じパターン、自分と違う他人の存在が許せない日本人、これも俺の宿命だと思っている、他人には干渉しないが他人からの干渉は正面から受けて立つ、結局国籍離脱は避けられなかったって事だ、蘇生すると必ず叩かれる日本は死んだ振りをするしかない。"

以前日本の特異体質の研究していた当時の阿部謹也先生の下記の言葉を思い出してしまった。

「朝日新聞 平成十年一月十九日付夕刊でも 「伝えるということ」というコラムで以下の様に述べている。

「他者を排除する日本の根」

「中世以前からある恩や義理と結びついた複雑な人間関係がつくる『世間』は、明治以降もしっかり根づいたままだ。その解体なしに日本は変わらない、と考えている。」
「日本の社会、実は世間は、他者を排除する。盛んに国際化といわれているが、私たちが世間という時、そこには世界の人々を含んではいない。日本に暮す外国人も入ってはいない。」

阿部氏は最近の著書「日本社会で生きるということ」 の中でも更に詳しく述べられている。

「ヨーロッパ流の「個人意識」が、日本でもあるかのごとき幻想が、未だにはびこっておるわけですが、実際は、ヨーロッパ流の「個人」というものを、日本で実現するには千年のタイムラグがあり、状況の違いもあります。それよりも、日本の今「世間」のなかにある「個人」というものが、「世間」と「個」との領域を、もう少しうまく設定しながら、「個」の領域を拡げていく。「世間」の解体を、多少もたらすわけですが、「個」の領域を広げていく必要があるだろう、と思うんですね。そうしませんと、いろんな面でこれからの国際社会ではやっていけない。」」

日本人が未開なのは今回の国会のゴタゴタを見れば明らかであり、にも関わらず日本人は日本の特異体質を表層に出ている現象だけ論って原因を追究して直そうともしない、結局原因は普遍主義を拒絶しているからに他ならない。
人類普遍の原理を拒絶し、自然の摂理を無視する傲慢さ、これこそが日本が詰んでいると言う所以であり、ツイッターがエンドレスになる所以でもある。
日本人が何故此処まで頑なに普遍主義を拒絶するのか考えて見たが、それは日本人にとって普遍主義がメタフィジカ(形而上)の世界だからではないかと思った。
結局日本人は自分と向き合わないし、自分を見つめる事がないから哲学の生れようがなく、常に相対世界で生きるしかないのだ、詰まり日本人は相対世界にどっぷりなのである。
大体日本では思想と生活が全く関係ない、何故なら思想が外来だからであるとは加藤周一氏の言葉であるが、
日本人は輸入のシステムを教育システムに至るまで建前とし世間、苛めを本音として残してしまった。
客観の客観視なら猿にでも出来るというように、輸入の考え方は主観になりにくい客観なのである、詰まり建前というものは主観になりにくい客観の事を指すのである。

日本人はこの主観客観という自他の哲学に突き当たると途端に目を背ける、何故なのかそれはこの時点でメタフィジカの世界に入るからである。
日本人が猿のまま死にたくないなら自分を見つめる事である、自分がなければ始まらないのだ、個の確立こそが文明化の入り口なのである、自分を限りなく相対化して個=1を括り出す作業が個の確立である。

2017年7月15日 (土)

日本人は個の確立が出来ないから神が居ないのだ。

俺がよく自分は25年間もの間地べたをのたうち回り人生をこねくり回して得た結論がオーストラリアに帰化する事だったと言うが、常に控えめに書いているが、25年と一言で言っても只の時間の経過じゃなくて一度に沢山の本を読んで情報を闇雲にインプットしそれがこなれて出て来る迄に時間が掛かる訳で、それこそニューラルプルーリングじゃないが縦横のインデックスが繋がって初めて理解するに至る訳でそれなりの時間を要する。

教科書が無い状態で一つの目的に向かって進むのは容易な事では無い。
まさにユーレカって感じで体感する、並行して進めて来た事が一寸した切っ掛けで繋がったりする。
例えば仕事上編み出した、「国籍を超え、年齢を超え、性別を超える」のスローガンが何の事はないそれ迄追求していた普遍主義の実践だという事に気が付いたり。
最近では『ワンネス』を書いてから25年目にして結局本音と建前が主観と客観そのもので限りなく一致させるべきもので、それらが離れたまま看過するべきではない事に今更ながらに確信したりした。

例えばニコラスクザーヌスの所謂「個は全を包含する」という言葉にしろ、「一にして全なる個」という言葉を体感するのに20年以上の月日を要したりする。
大体、哲学的にリベラルであり政治的にもリベラルになれた事すらオーストラリアに帰化してから実感したものである。
内なる神を探る作業は単なる知識の集積ではない。
神体験ってのは本を読んだだけで簡単に出来るものではない。

個の確立が近代文明ひいては日本人の文明化の要である事を日本人が理解さえ出来たら状況はかなり楽になると思う。
これを平易に解説出来たらどんなに良いものかとつくづく思う、それを日本人は神が居ないから個の確立が出来ないと言ってしまったら文明化の道を断つ事になる。
そこで言いたいのが、神が居ないから個の確立が出来ないのではなく、個の確立が出来ないから神が居ないのだと。

2017年7月14日 (金)

文明化

日本が聖俗未分離の前近代社会である事、近代文明が西洋文明である事から鑑みて近代文明を構築している普遍主義を避けては通れない。
それを避けて通っているのが日本である、結局日本人は文明化したくないとも言える。
だから、近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法も普遍主義で構築されているにも関わらず憲法を守れと言うとリベサヨ扱いになる。
普遍主義(洋魂)は避けては通れないのに避けて通ろうとする、洋魂は和魂で代替出来ないのに無視する。
結局普遍主義を拒絶している事に他ならない。
和魂洋才の捻れから逃れる為には洋魂洋才の環境で帰化するしか無いのである。

科学の目的は全能性の追求であり手段は普遍性の追求である。
その両方の追及姿勢の欠如する日本では本来科学の生まれる土壌は欠如し、従って日本の科学は宗教に近い、日本人は科学教の信者であるとも言える。
だからノーベル賞受賞者の根岸さんがインタビューで「真理の探究もさる事ながら科学も大切である」と頓珍漢な事を言ってしまうのである。
科学の目的は真理の探究じゃなかったのか。

一時、普通はとか皆はとか言うと普通とは何だ全員に聞いたのかと絡む人間が跋扈した事がある、そういう人間は必ずや一般論化しないでくれと多様性を主張する、科学の手段が普遍性の追求であり、要素還元主義である以上、共通項で括り一般化しないで科学は成り立たない。

科学の手段が普遍性の追求である以上、科学者こそ普遍主義をもっと知るべきだと思う、普遍性の追求の先に自由平等博愛の考えがあるのだから。

2017年7月 4日 (火)

西洋人の神とは

(´・ω・`)「道徳的で理性的なイデオロギーへの欲求は西欧文化の一部となっている。かたや日本は理性や普遍的な道徳律よりも人間の感情や人間関係のヒエラルキーをはるかに重視している。」

昨日金ビス先生の引用ツイについ

「それを聖俗未分離の前近代社会詰まり未開の土人と呼ぶって書いてないですか?」

と反応してしまったら、

(´・ω・`)「日本には社会の外に、あるいは上にいて私たたち全てを見守っている唯一神は存在しない。その代わりに、特定の社会的情況にふさわしい行動規則や礼儀作法の複雑なシステムが機能しているのである。」

と続いた。

それに今度は、

「未開だから普遍主義の基本の自他の哲学さえ括り出せないから絶対主が居ないだけで、西欧にだって外側には神なんかは居ないでしょ、神は人間の内側に居るんだから。」

とコメツイしたら、

オランダ生まれのこの御仁に言うてくだされ⇒Ian Buruma「日本のサブカルチャー―大衆文化のヒーロー像 」

と言われてしまった。
ウォルフレンの二番煎じかと思いきや、

「もう古参かと。ジャパンスタディ界隈じゃ定番のおひとり。ライデン大学出てテラヤマの欧州公演きっかけにポンニチサブカルに興味持って、という経歴。写真撮ったり映画批評やったりあれこれやっとらすんですが、もともとジャーナリスト系ですね。」

らしい。

その後の俺のツイ、

"日本の神に関する外国人の記述を見る度に思うが彼らも如何にして神が創造されたか迄は理解してないみたいで歯痒い、何とか日本人自らの手で普遍主義を括り出して欲しいものだ。"

"未だに外人の書いた事が恰も事実かの如く流布するって日本人は恥ずかしくないのかね、結局客観の客観視なんて猿でも出来る事を鵜呑みにしてるって事だぜ。"

"でも西洋人なんて呑気でいいよな、自分らの神が外に居るなんて平然と言えるんだから。"

"日本人は自分らが未開の土人だと言うことを必死で否定するが、本音と建前を離れたままに看過してる限り文明化は望めないと気が付かない、本音は言わば主観建前は客観であり、主観を相対化して限りなく客観に近付けると言うのが自他の哲学普遍主義の基本中の基本だから。"

"でも何で日本人は一足飛びに天の神様にすがりたがるのか不思議だよね、何故自分で神様を見つけようとしないんだ、それも皆カルトばかりだぜ、そんな自分らが恥ずかしくないのか、恥さらしの文化か?"

"この倫理規範の欠如する日本で皆何を期待してるのか俺にはさっぱり理解出来ないんだよな、毎日ここに出て来てああでもないこうでもないって建前論並べ立ててりゃこの癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」社会から脱却出来るとでも思ってるのかね出来る訳ないだろうが、胸に手を当てて内なる神に聴いてみな。"

結論として言える事は西洋人も大部分は他人の創り出した神にすがっている事だよ、だから日本人も普遍主義を拒絶するだけじゃなく、自らの手で普遍主義を括り出さない限りいつ迄経っても前近代社会、未開の中世ガラパゴスジャップランドの土人のままなんだよ。

2017年7月 1日 (土)

国籍離脱の勧め

「前川さんの会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。」

と以前書いたが、

前川氏の会見ではっきりした事は彼が憲法に忠実であり、基本的にリベラルで保守と革新に分かれる建前論だという事だ。
ところが多くの日本人は普遍主義詰まりリベラルを拒絶しているのが本音なのだ。

リベサヨが建前論で攻めればネットウヨは本音で応戦する、これは建前と本音の戦いなのである。
然し残念ながら日本にリベラルの生まれる土壌はなくあくまでも建前論なのである、又ネットウヨが頑なに拘る日本は時代逆行であり近代文明を拒絶するものでお互い相容れない。

今迄は西欧化をよしとしていたので普遍主義礼賛の風潮があった、憲法前文にも人類普遍の原理と謳われていたからなのだがここに来てそれがガタガタと崩れ始めたのだ。
遂に日本人の本音が本性を現した感じである。

日本人が建前と本音を使い分ける限り日本人に文明化は望めず、和魂洋才の捻れは続くのだ。
一つ言える事は日本人は個も論も欠如するので普遍主義、その基本である自他の哲学ひいてはリベラルを導き出せないのだ、従って哲学的にリベラルを前提に保守と革新が機能する土壌も生まれないという事だ。

これが俺が国籍離脱を決意した理由だが、こんな環境に身を置いたらおかしくならない方がおかしいのだ。

何度も書いたが、西洋人は一時的に心と身体を話して科学、ひいては近代文明を発展させたが、逆に日本人は近代文明により無理矢理に心と身体を引き裂かれ一億総分裂症になった。

「和魂洋才とは外面と内面を使い分けるということである。これこそまさに精神分裂病質者が試みることである。あるいはこう言った方がよければ、ある危機的状況にあって、外面と内面との使いわけというこの防衛機制を用いることが、精神の分裂をもたらすのである。」

かの岸田秀氏も『ものぐさ精神分析学』で書いているではないか。

悪い事は言わない、狂いたくなければ日本を去る事だ。

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