学問・資格

2013年6月13日 (木)

他力本願 

【復刻版日記2011年5月21日】エゴ即ちsubjectーobjectと英語で呼ばれるように主体でもあり客体でもある、所謂主観的客観である。

僕は事ある毎に日本人はエゴのコントロールを他力的に行って来たといい続けて来た。
結局理解されるには至らなかったが、今回の原発事故を契機に今までばらばらだった要素が一纏めになり、「日本人には自分が無い」と言う事実に凝縮されているとの結論に達した。

『エゴのコントロール

エゴのコントロールは人間にとって非常に重要な要素である。
前述した様に、今迄日本人はエゴのコントロールを「世間」の中で他力的に行って来た。
戦後五十余年、日本人は自由を追求し続けた結果「世間」から飛び出しこの大事なエゴのコントロールを失ってバラバラになってしまった。これは、老若男女の混じりあった「世間」の構造の中で周囲の人間の眼によってエゴを律して来た日本人が、柳田國男の言う「異郷人ばかりが隣り合わせて住む」7 より大きな社会構造の中で、煩わしい縦の人間関係を極端に排除した為なのかも知れない。今日本人は都会化の波の中で、疎になってしまった人間関係をどうにかして密に戻そうとしているが、このエゴのコントロールが元来苦手な為どうしても傷付け合ってしまう結果をもたらしてしまい勝ちである。
これは山嵐がお互いの温もりを求めて身体を寄せ合うと棘で却って傷付け合ってしまうという、所謂山嵐のジレンマと言われているものであり、精神科の症状である。今日本人に課せられているのは、今迄他力に頼っていたエゴのコントロールを如何にして自力でコントロール出来るようになるかという事である。』
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『「世間」からの遊離

先日知り合いのアーティストと私が書いた論文について話していた時、筆者の「日本人はエゴのコントロールを他力的に行っていた」と言った言葉に過剰反応を示した。
「日本人は自分を客観視するのが得意でない」という点については、彼は、「日本人も海外にどんどん行くようになって、自分を客観視するチャンスは増えている」と言っていた。自分を客観視するのは何も海外に行かなくても出来る。
客観を客観視するのは誰にだって出来るとその時思った。
矢張り日本人は自分を客観視するのが苦手な様である。
彼は更に「もっと柳田さんも「世間」に受け入れられる努力をしろ」とも言った。
勿論私は自分から日本の前近代的「世間」に逆らって生きて来た事は確かである。
だが私の場合は自分でした事であって、「自力」である。
私の言いたかったのは「他力」に頼っていた人間が拠り所を失いつつあるという事である』
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『個の行方

国民一人一人のエゴのコントロールが出来ていれば国の政策も決まり易いが、それが無いと日本の国会の答弁の様に欺瞞的で不毛になり、政策一つ決めるのに常に手間取る結果を招く。
つまり、国のエゴは国益を守る為の国策となり、国民のエゴは利己主義となるのである。残念乍ら、未だに戦争での殺戮は結果的に許されている状態であるが、今後は国と国とのエゴが益々取り沙汰される時代になると思われ、日本が一国家として諸外国と対等に付き合う為には、日本人も必然的に自力でするエゴのコントロールを余儀無くされるのである。』
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少しは私に愛を下さい 

【復刻版日記2011年5月20日】少しは私に愛を下さい
♪一度も咲かずに散って行きそうなバラが鏡に映っているわ、♪

これは小椋佳がNYに赴任していた時自分の勤めていた勧業銀行が第一銀行とが合併した時に、NYCに居て疎外感を感じ悲しくなって作った曲だと記憶している。

今ユーチューブで小椋佳 来生たかお 井上陽水のステージを見て、オーストラリアに居て祖国の崩れて行く様に嘆く自分を重ね合わせて涙が出て来た。

よく日本は終わってるとか言う声を耳にするが、実は日本は始まっていないのである、つまり、自分が無ければ始まらないと言うように、日本人は自分がないから始められないのであり、従って終わりようもないのである、これが、一度も咲かずに散っていくバラなのだ。

僕が20年間追求してきた日本の特異体質に、自分が無いからと頭につけてやると納得出来る。

自分が無いから、付和雷同
自分が無いから、自己殖民型
自分が無いから、当事者意識の欠如
自分が無いから、蚊帳の外(自己遠心)
自分が無いから、自分で考える事(哲学)が無い
自分が無いから、自分の言葉でしゃべれない

これで柳田國男の括り出した日本人の特徴、僕が括り出した日本人の特異体質が皆あてはまる。

僕が今まで和魂洋才の弊害、輸入の学問の弊害、翻訳文化の弊害、と言い続けたものは全て、総論を輸入せず、各論だけを利用して今回の様な致命的に国土を汚染する原発事故を惹き起こした原因なのである。

つまり自分が無ければ、自分を客観視して普遍性追及姿勢も生じず、それが無ければ宗教さえ生まれず、宗教が無ければ全能性追求姿勢もうまれす、従って科学も生まれないのである、僕が日本では科学者も科学的でないと言う根拠はここにあるのだ。

個の確立が大人の基準であり、近代文明が進化の基準だとすると、日本人は子供であり、遅れていると言わざるを得ない。

この原発事故を教訓として意識改革を図らなければ日本は始まる事なく、聖俗未分離のまま終わるだろう。

科学者が科学的でないとどうなる

【復刻版日記2011年5月18日】今回の原発騒ぎで気付かされた事は多い、中でも、大分前に仮説として、中心に哲学を置き、全能性追求の姿勢で科学を生み出し、普遍性追求姿勢で宗教を生み出す、人間の思考回路を図説しておきながら、全能性追求姿勢も普遍性追及姿勢も欠如する日本で科学だけが正確に機能するわけもないと言う事に気が付かなかったのは不覚だった。

勿論自分或いは僕の親父を含む大部分の国民がって時に学者だけ例外だって事はあり得ない、つまり、僕が日本には科学の発生する土壌が無いと言った時に、「日本にも科学はある」と一言言って押し黙った生物学者の親父しかりなのである。

柳田國男の時代に僕が敢えてここで論う事が不要な程日本の特異体質は括り出されていた。

僕が柳田國男の日本人らしさの追求は図らずも現状にそぐわないものだったと事ある毎に書いていたが、少なくとも國男は眼を現在におき、常に改良を唱えて居た事である。

でも僕が調べた限り、学者さん達は違いばかり論い、負け惜しみの内弁慶的発言ばかりが目についた事も確かである。

僕の叔父である宗教学者の堀一郎ですら、違いを強調し、結局これだ、

「千年以上も前につくられた律法や戒律不寛容性を強調する宗教が人類の進歩にどれだけ将来貢献し得るのか。」
「近頃、イデオロギー運動の宗教化現象を見るにつけても、わたくしははなはだ懐疑的たらざるを得ないのである。」

と、他所が旨く行っていない事を盾に、自分を安易に肯定してしまっている。

あの世間についてお書きになってられる阿部謹也先生もしかり、

「この状態を見て、学者の多くは日本が遅れていると思っているようですが、私はそうは思いません。遅れているとか進んでいるという問題ではなくて、質の違う文明、文化なのだと思います。ヨーロッパの個人は十二世紀に生まれたのです。」

他にも例は沢山ありますが、詳細については僕の近代文明学総論、日本の特異体質、ポストモダンを併読して頂きたい。

三省堂から出た一語の辞典の作田さんに至っては、

「孤独の孤としての個の概念は虚構に過ぎない」みたいな事を言い切るし、そんな事言ったら、この世に普遍とか全能とか存在しないのだから、普遍性の追求とか全能性の追及なんて虚構に過ぎないじゃないの、この世に無いからこそ追求するんでしょ、あれば追及しないでしょうが。

そして最後には、日本の個人主義は共和主義的個人主義だとか経済的個人主義だとか訳のわからない事を述べ立てて終わり、結局学者さん達は日本が遅れていると言いたく無い為に違いばかり強調して、結局違いばかり論う日本人の特異体質もろだしでしょ。

皆只情緒的で事実を認めたくないのよね、結局、つまり、自虐と美化の二分法で書いたけど、間に存在する科学教徒なのさ、ちっとも科学的じゃないって事。

科学的じゃないって事は、科学の基本である要素還元主義が苦手だって事、だから、要するにってのが無い、只々難しい言葉を羅列して行数ばかり増やし、情報を咀嚼してから自分の言葉で述べるという事がないから、何を言いたいのかさっぱり理解出来ない。

全てが金儲け

【復刻版日記2011年5月16日】僕は最近判って来たんだけど、結局日本人にとっては全てが金儲けだったって、つまり科学だって所詮金儲けの手段に過ぎなかったって事よね。

だってね論理のどこかで短絡してなかったら今回の原発事故みたいな結果が出るわけないでしょ、

科学の目的は=人類の幸せ、人類の幸せ=金儲け、 科学の目的=金儲け、

人類の幸せって果たしてお金だけなんだろうかって疑問すら持たないなんて良識を疑われても仕方がない。
僕はこの良識と言う言葉を使う時、つまりデカルトの言うボンサンスって言葉が神の居ない日本で果たして期待出来るのかっていつも思う。

論理の欠如だって良識の欠如だって、全か無か、一か八か、All or None、当たるも八卦当たらぬも八卦のホーリズム、つまり聖俗未分離の特徴なんでしょ。

つまり日本人は論理もへったくれも無いわけよ、短絡、短絡、まるで東電の集中制御室みたいだって言ったでしょ、結局日本人にとって、憲法の前文にある「人類の普遍的原理」さえ、金儲けにしか考えられないんじゃないの、まぁ一面は捉えてる事は確かだけどね、一理あるねって奴ですかね。

これであの竹中さんと組んで規制緩和を叫んで引っかきまわした小泉さんが鼻の穴を膨らませながらしたり顔で「俺の考えは全て人類の普遍的原理に基づいている」とうそぶいたのも納得が行くじゃないか、彼等もあれでかなり私腹を肥やしたって言うじゃないの。

科学が宗教だったって言ったたけど、同じ宗教でも現是利益追求の為の新興宗教だったって事。

そうでしょ、2,000円で買った壷や五重塔を2,00万で売ってる新興宗教と似てるじゃないですか、談合ってのがそんなもんでしょ、つまり原子炉が何億するか知らないけど、皆談合なんでしょ、技術なんて似たり寄ったりの一蓮托生なんでしょ、もともと半額で出来る原子炉を倍で売ってるのと同じなんでしょ。

つまり科学の技術的側面だけを利用しちまったって事、金が儲からない事は研究しないじゃ、真の科学とは言えないでしょ。

これでも、日本人は海外の文化を器用に利用してここまで驚くべき経済発展を遂げたと自信を持って言えるのか疑問でしょ、これこそ僕が良く言う日本人の都合の良いとこ取り、つまり都合が良ければ悪い事でも取り入れる日本の特異体質なんだよね。

これじゃ猿真似のイエローモンキーって言われても仕方ないじゃん、完全に発想の貧困さを露呈したみたいなもんでしょ、海外からエコノミックアニマルって呼ばれてた時と同じじゃん。

下の句が「それにつけても金の欲しさよ」って言う短歌みたいなもんだよ、

全も無く 個も無い国の 天高く 

民の声さえ 神に届かず

それにつけても金の欲しさよ

俺はこんな日本の事を考えると涙が出てくるのよ。

2013年6月12日 (水)

普遍性追求の旅

【復刻版日記2011年5月9日】40の時学校で習った事と実社会の齟齬に疑問を感じ会社を辞め、以来近代文明の淵源を探るべく、イタリアルネサンスの研究及び、祖父である柳田國男の研究を並行して行い、日本の特異体質とポストモダンのエートスについて深く追求して来た、僕が言う「惟神の道はローマに通じるか」の一言で言い表せる様な言わば普遍性追及の旅をしているわけだが、50の時に限界を感じそれまでの人生を半年間家に篭り自伝に纏め、それまで散り散りに乱れた人格を一つに纏める人格統合を試み、その後始めて出会った女性と結婚して今に至るのである。

僕は50迄の人生を理念編、女房と再婚した50からの人生を実践編と呼び、便宜上理念編を前世と呼んでいる。
つまり、僕のスローガンんである「国籍を超え、年齢を超え、性別を超え」の実践である、果たして27歳年下のオーストラリア人と結婚して主夫が出来るかと言う無謀な試みでもあった。

幸いな事に結婚11周年を向え、僕も還暦を過ぎ62になってしまった、マヌ法典で言えば遊行期に差し掛かっている、23歳だったヤンキーならぬオージーの茶髪も遅れ馳せながら32で大学を卒業し35で公認会計士の資格も取り今は36になり、一件落着、僕も肩の荷がおりて現在は安堵のひと時である。

そんな時静寂を破るように東日本大地震それに伴う福島原発事故が起き、普遍性追求姿勢も全能性追及姿勢も欠如する、いわば聖俗未分離の日本では科学すら宗教化して実に危険である事をいみじくも証明してしまった。

僕は今まで個の確立の重要性を説いて来たつもりだったが、個も論も無い日本と自分で言いながら、個の確立など期待すら出来ない事に気がつかなかったのだ。
つまり、輸入の学問では理解出来ない日本と言いながら、輸入の手法でしか説明出来ない自己矛盾を惹き起こしていたのである。
日本は僕が言う、ホーリズム、All or None、全と無の間を行ったり来たりしている聖俗未分離であり、先ずは個=1を導き出さない事には始まらないのである、無からは何も生じず、先ずは1を導き出す事なのである。
それには哲学の基本である自分を相対化して個=1の概念を括り出す事が必要なのであり、これが僕の言う「自分が無ければ始まらない」の所以なのである。
普遍性追求と言うのは、一言で言うと、共通項で括る事である、科学の基本である要素還元主義なのである、これは科学の基本原理である全能性追求姿勢の対極にあるのである。
違いばかり論う事に終始している日本人に普遍性の追求姿勢が生じさせるのは非常に難しい、それには先ず自分で考える事と言う哲学の基本が必要なのである。

「日本は潜在化しているタブーを健在化させ、差別を撤廃し、nationとしての国家から、stateとしての国家に脱却すべきである」なんて口で言うのは簡単であるが、言うは易し生むは難しである。

タブーの健在化、差別撤廃なんていっても一筋縄では行かないし、ましてや、ナチュラリズムとヒューマニズムのハーモニズムにホーリズムから一足飛びに行けるわけでもない。

かと言って普遍性追求の旅をやめるわけにも行かず、汝の隣人を愛せ、つまり足許から固めるしかない、つまり女房との普遍性追求の旅を続けるしかない。

正義について 

【復刻版日記2011年5月7日】昨日配信中に弁護士でフリーメイソンの兄を持つ日本在住のフィリピン人の女性が、「兄さんは負けてばかり」、「お金にならない」とぼやいていた、これこそが黒の物でも白と言わなくちゃならない弁護士の究極の選択なんだと思う。
彼女には「お兄さんが良い人の証拠だよ」と慰めたが、丁度正義について話題になっている時にタイムリーな話だった。

以前2ch上のステスレ(スティッカムのスレッド)で論破って言葉が流行った、その時僕は、論破の定義を、詭弁を弄して相手を煙に巻く事と言っていた、これこそ今暁の豚こと枝野弁護士が盛んに行っている事である。

これを必要悪と言ってしまえばそれまでだが、黒白の決着は常識では解決が出来ない良識の問題なので、正義すら相対化している日本で正常に機能するかどうか疑問である。

特に9/11以来正義の本場アメリカでさえ正義が揺らぎ、僕はこの正義の揺らぎこそがサンデル教授の受ける原因だと推測している位なのである。

日本ではこんな事は日常茶飯事に起きている、東電の隠蔽体質だって例外ではないのだ。

今もニュースは焼肉屋で生肉を提供して死者が出たという話題で持ちきりであるが、もともと生食用の肉等無い上に、肉の内側をそぐと無駄が出るので最後のトリミング処理をしていなかったと言う事実が判明した。
食肉業界はこういった類の事件が多いが、前にもミートホープ事件ってのがあったし、大会社の日本ハム、東急グループですら不正が明るみに出た事もある。

その時僕はこんな事を書いていた。

Aug. 14, '02 2011nen

これが先に書いた、感情が先か、真実が先かの問題なのである。こういう風に書くと、誰だって真実が先に来るに決まってるだろうと思うに違いない。然し乍らこれはどんな犠牲を払ってでも真実が先と言い切れるかの問題である。
これを程度の問題として解決するのか、しないのかの問題なのである。
これは「良識」が絶対なのか相対なのかの問題なのである。
例えば僕の女房が何かをしでかしてしまったとする、普段の日常の失敗等で女房が不当にアキューズされれば、詭弁を使ってでも限り無く庇うだろうが、法を犯す何かをしった場合、真実は曲げる訳には行かず悩みに悩み罪を償う事を勧めると思うからである。
家族を養わなければならないサラリーマンが折角上り詰めた地位にしがみつき、部下が売上を上げる為に止むを得ずしてしまった不正行為を知った時自ら進んでその事実を暴く勇気があるかどうかにも繋がる。ましてや自分が勝ち得た地位を守る為に不正行為という悪事に身を染めるという事だって充分に考えられる。
でも僕には出来ない相談である、大体僕は嘘を付けない人間であり、結局戦争に行っても人殺しは出来ないし、会社ぐるみの詐欺事件でも参加する事が出来ないからである。これを僕が弱いと言ってはそれまでだが、感情が先か真実が先かを考えた場合、僕の場合どんな犠牲を払おうとも真実が先に来るからである。
世渡りが下手、要領が悪い、融通が利かないと言ってしまうのは簡単だが、とてもじゃ無いが最後(良識を曲げる)迄は融通が利かないのである。それは僕が何よりも真実を大事にし、妥協を許さず、曖昧な解決法を望まないと言う事にあるのである。これは僕がクリスチャンであるからだけでは無いと思うが、自分のクリスチャニティーが大きく作用している事も事実である
つまり、慣れ合いの世界、例えば日本ハムの会長と食肉協同組合の理事長が同じ人間で、自分の会社の偽装を隠蔽する為に国の通告を無視し、立場を利用して無断で検査前に勝手に肉を焼却してしまうという様な事等考えられないし、自分がその現場に直面したらその時は会社を辞める時だからである。これは「戦争犯罪」で書いた、「仲間外れになるのが嫌だから殺人をした」という「村八分」を恐れるあまりの、「まあ、まあ」に代表される、「慣れ合い」、「事勿れ」を極力排除する事にある。
つまり、真実を曲げない迄もぼかす「まあまあ」の姿勢、真実を伝えようとする人間に「君も少しは大人になりなさい」と言う姿勢も、問題のある人間を責めず、正論を吐いている人間を世間に波風を立てたという事実だけで吊るし上げる姿勢も、日本独特の事勿れ主義、ひいては世間から仲間外れ、所謂村八分にあいたくないという事から来る弱腰の産物であり、世間におもねり迎合して罪の意識を背負う、或いは罪人になるより、僕は、弱い、要領が悪い、世渡りが下手、如何なる表現で誹謗されようとも、それにより仲間を失う事があっても真実のみを僕の伴侶として選ぶに違いない。

認識の限界

【復刻版日記2011年5月6日】以下は知人に依頼されて書いたDoCoMoの大人モードの原稿の抜粋であるが、いかんせんオーストラリアではIモードが読めないので出たのか出なかったのかも判らない。

「今度映画にもなったバベルじゃないが、お互いの認識をお互いに認識出来ないのが人間の欠点だが、言葉は所詮ツールであり言葉が通じても心が通じる訳でもないし、心が通じ合っていてもこの認識の限界を乗越えるってのは一筋縄では行かない。」

日本人は兎角阿吽の呼吸だとか言って、暗黙の了解を相手に期待してしまうが、僕は女房が西洋人なせいか、違うからこそ理解し合おうと努力するのだと思っている。
たまには息が合う相性が良い相方もいるだろうが、それにぶら下がっていると痛い目に合うと言う事である。

以下は僕がオーストラリアに来たばかりのころ、オーストラリアを二度手間の国、日本を片手間の国と呼んでいた頃書いた物の抜粋である。

「2001年7月の日記より」

「日本の正確無比な事務処理に慣れていると、西洋人が目的重視型でプロセスには余り重点をおかず、常に訂正出来るという融通の良さに憧れる気持がある反面、あのいい加減さが歯痒く、煩わしく感じられジレンマに陥る。つまり交渉次第で良い条件が得られるとか、話せば判るとかいう西洋流の目的重視型思考法では、思わぬ処に落とし穴があって、黙っていても安心という暗黙の了解が殆ど無いのである。つまり、「話せば判る」と言う事は、「話さなければ判らない」と言う事に通じるからである。」

オーストラリアでは個が社会より先に来るので事務が二度手間になり、日本は個が片手間に扱われているので秩序はあるが窮屈である、自由を取るか秩序をとるかの究極の選択を迫られた時自分は自由を選ぶと言う事である。

以下は僕が2002年頃自分のHPに乗せていた、オーストラリア滞在二周年記念コラムの一部の抜粋である。

「僕は昔から白人、特にアメリカを牛耳っているWASP(WHITE, ANGLOSAXON, PURITAN)はヒステリックになるという印象を持っていて、筋が通らない事を平気でゴリ押しして来たりする傾向があると信じている。」
「僕が「話せば判る西洋人」と言うのは「話さなければ判らない」事に通じると言うのも此処にある。日本人は兎角「暗黙の了解」とか「阿吽の呼吸」とかを求めて、話してもみないうちに諦めてしまうが、国際社会ではそんなものは通用しない。矢張り何事も試してみないうちに結論を出すのは止めるべきだと言う事である。」

ここで僕が言いたいのは、日本も一民族一種族なんて建前論で、阿吽の呼吸、暗黙の了解なんか無いのにも拘わらずコミュニケーションを怠り、お互いの誤解を解く努力もせずに看過しないで、nationとしての国家からstateとしての国家に脱却すべきだと言う事である。

エートスなのかパトスなのか?

【復刻版日記2011年5月5日】
♪心が寒い、心が痛い、夢がお互いに違っていたのね、、、♪

何故歌謡曲の歌詞が心に響くのか、何故ならば日本人が情緒的だからである、この特徴はは良い方向に出る時もあれば悪い方向に出る時もある事である。

聖俗未分離とはこう言う事なのである、右脳も左脳も分かれていず、知性と感性も分かれていない。
くそみそ一緒の状態なのである。

これが俗に言う一か八か、All or None、当たるも八卦当たらぬも八卦のホーリズムと言う物である。
つまり日本人のエートスは情緒なのである。
それともエートスは甘え、事勿れ、付和雷同、美意識先行、負け惜しみ、内弁慶、グループアイデンティティー、パトスが情緒なのか?

20年前僕は、ダンテの神曲の一節みたいに、「僕は人生の半ば過ぎ暗い森の中にいた」なんて言っていた。
当時スウォッチにダンテの横顔にその一節が書かれているのがあって愛用していたのを思い出す。

当時青山のパーティーで酔っ払ってその下にあったペットショップで衝動的に買ってしまったコッカースパニエルにも勿論ダンテと名前をつけたし、彼女を買ってビーチェ(ベアトリーチェ)って名前付けようなんて言っていた位である。

"The biggest mistake I've ever made in the last fifty years in my life is to misunderstand Japanese people more logically organized, that there's the difference between what I think is modern civilization and what the majority of Japanese people think."

10年前にはこんな事を書いていた、これが冒頭の歌謡曲を思い出させるのである。

僕の試みは元々ポストモダンのエートスを求めてと言うものだった、その後モダンが無ければポストモダンも無いと気がついた時に、これを書いたのだと思う、確か大江健三郎さんが仰っていた言葉じゃないかと思う。

結局日本にはモダンなんて無かったのであり、従ってポストモダンなんてのも無いのである。

近代日本、科学的な日本人って言葉が自己矛盾なんて悲しい限りである。

エートス 2011

①人間の持続的な性格の面を意味する語。
②ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な慣習・雰囲気。エトス<->パトス

パトス

事件や他人により人は受難としての情熱・激情を内部に持つ。
それはエートスのように恒常的でない代わりに、一瞬の内に何かを生み出す契機となる。<->エートス

サンデル教授のフィーバーについて考える。

【復刻版日記2011年5月4日】
たまたま最近オサマビンラディンがワールドトレードセンターテロから10年経った時に殺害されたニュースが入って来た。
2001年のこの事件の後僕は、自由がいらないと言っている人間に自由を押し付ける、所謂自由の押し売りについて書いた事を思い出す。

ポストモダン4
ポストモダン5
ポストモダン6

つまりブッシュが当時、"smok'em out and bring'em out to justice"みたいな演説をして、イラクに侵攻したのである。
この時思ったのが、人間が神になってしまうと、正義も気違いに刃物だと言う事で、麻原彰晃と何ら変わりはないと言う事なのである。

僕がその時書いたものの抜粋だが、

「一人一人の良識の範囲では、「暴力による解決は避けるべきである」というのは明白だと思う。しかし、あのニューヨークでの大量の犠牲者を前に「報復行為は罪です、ただ祈りましょう」と明言する自信のある人が居ない。」
「我々の持ち合わせている通常の倫理規範では、首謀者オサマ・ビンラディン及びその組織アルカイダ、叉それを庇うタリバン報復を悪であると導けるだけの論拠が乏しい。」
「下手に良識を振りかざすと偽善者っぽくなってしまうし、かと言って国粋主義も現代的ではないし、恰も「彼方は自己犠牲を払ってこの問題解決に尽力出来ますか」と問われているみたいなものであり、ヒポクリットかパトリオットかと選択を迫られた時に、今迄みたいに優等生をやっていられない程追い詰められてしまった様なものである。」

ベトナム戦争の時、社会復帰出来ない復員兵の為にビジョン心理学が開発されたように、今日本で爆発的人気のハーバード大学サンデル教授の正義論、或いは究極の選択もこんなところに切っ掛けがあるのではないだろうか。

もともと政治哲学には興味がないので、「リベラリズムと正義の限界」ってのは時間があったら読んでみたいが、あまり足しにはならんだろうと思う。
大体、哲学とは自分で考える事であると言いつつも、教授はカントがどういった、アリストテレスがどうのと哲学史を披瀝するだけに終始している。

これも以前オランダ人のジャーナリストウォルフレンが流行った時と同じに一過性のものじゃないかと危惧する、

その時僕は柳田國男を継承する会と言うHPに「国学」と「蘭学」と言うタイトルで文を載せた事がある。

「国学」と「蘭学」

「折角祖父が「新国学」としての「民俗学」を提唱したにも拘わらず、ただの「郷土研究」程度にしか理解出来ない日本の知識人に失望を感じさせらてしまっていたからである。」

「再び我々は「蘭学」をする事になりそうな気がする。」

と僕は書いたのだが、

興味深いのは彼がある著作の中で、

「私は幸い、この国で、多くの友人、真の友と呼べる友人に恵まれてきた。そして、彼らと無数の忌憚のない意見を交わしてきた。日本のほかの知人たちとも同様だ。しかし、会話が終わると、日本の友人も知人も、気苦労の多すぎる彼らの社会へとまた戻っていかねばならなかったが、私はその外にとどまっていられたのだ。」

と吐露したのである。

所詮彼も外来なのであり、日本人にとっては異邦人(一寸振り向いて見ただけの異邦人♪)なのである。

それが証拠に彼はこれを踏み台にしてアムステルダム大学の教授の職を得たのである。

ここで僕が言いたかったのは、聖俗未分離の日本では、科学が宗教化したのと同じに、哲学も宗教化すると言う事である。
僕が正義すら相対化する日本と言うように、個も論も無いつまり自分が無い日本では、世間こそが正義なのであり、それこそが僕が世間主義人民共和国と揶揄する根拠なのである。

願わくばサンデル教授のフィーバーが一過性のものでなく、日本人の心に自分で考える事こそ哲学であると気付かせ、根付かせて欲しいものである。

自分が無ければ始まらない

【復刻】日本では本来歓迎されてしかるべき、自分を持っている人間をどういうわけか煙たがる傾向がある。
自分こそが哲学への入り口だと言う時に、自分を持っている人間を潰してしまったら、哲学など生まれようもない、哲学が生まれなければ、科学だって生まれるわけもないのである。

柳田國男が下記のように述べている、

「日本人の大多数は、まるで魚か渡り鳥の群れのように、みんなのする通りに行動するのが、最も安全なる活き方だと、信じているかと思うような、個性の没却が常の習いになっている。これには我々のまだ知らない深い原因があり、これによってこの奇抜な風土に適応し、種の保存には成功し、しばしば繁栄の機会をつかみ得たのかもしれないが、その代りには背後に血と涙と汗と、少なく流れるを喜ぶべき液体が多量に流れる。デマゴーグの最も効を奏しやすい国であり、普通選挙の根っから張り合いのない国でもあったのである。」

この「個性の没却が常の習いになっている。」没個性、どこを切っても金太郎飴式の教育こそが元凶なのである。
冬季オリンピックのスノーボーダー国母選手が制服をゆるゆるにして着て顰蹙を買い、蓮舫が作業服の襟を立てて個性を出そうとする、本来没個性であるべき制服(ユニフォーム=一つの形)で個性を主張しようとする、本末転倒が生じてしまうのもこんなところから来てるのかも知れない。

自分を幾ら持っていても阿呆じゃしょうがないかも知れないが、阿呆、阿呆といわれている内に自己の内面に深く入り込み、悟りを開くと言うのが哲学の究極の目的とすればまんざらでもない。

僕は日本人は自己遠心的(蚊帳の外)であり、当事者意識、参画意識が希薄であり、自己中心の方が未だ良いと言って来た、自己中心も四面楚歌になれば自己求心になるからである。

自己遠心も自己求心も僕の造語の為、ググっても出てないかも知れません。

僕が輸入の学問では日本人の心は解けないと言い続けるように、翻訳文化の弊害で、僕が近代文明学総論とか個人学、自分学みたいに造語しないと説明出来ない現象が日本には多々有るのである。

哲学の基本は自分を客観視して個人をくくり出す事にある。
相対化と言うともっと専門的に格好よく聞こえる、が哲学者の大部分は哲学史を披瀝し、デカルトがどうの、カントがどうの、ショーペンハウエルがどうの、所謂デカンショ節、プラトンがどうの、ヘーゲルがどうのスピノザがどうのとこけおどしに過ぎない。
昔の偉人が何を言おうとと自分が納得しなければどうにもならない、要は自分がどう考えるかなのである。

僕が自伝の序で書いた通り、

「私が会社を辞めてから、一時家に籠って悩んでいた事があった。色々な本を読んでも難し過ぎるし、考え疲れて、どうした物かと思案に暮れている時、ふと哲学とはこうして自分で考える事にあるのではないかと思い付いたのだ。 暫くした或日、本屋を歩いていた時、澤瀉敬久先生の『「自分で考える」ということ』という本を見付けて驚喜してしまった。この本はわたしにとって一生離せないと思う程度になる本で、いまでも一冊だけ良い本の名を挙げろと言われたら、文句無しにこの、『「自分で考える」ということ』を挙げると思うくらいである。」

大事なのは自分で考える事なのである。

この本の中で澤瀉敬久先生は、「自分で考えるの反対は、皆で考えるではなく、自分で考えない事だ」と言うような内容の事をお書きになっていたと思う。
僕は余りにも感動したので二度も感謝の葉書を出してしまった覚えがある、それに対して先生はご丁寧に二度ともお返事を下さったのである、さすが大学者は違う。

柳田國男も「私の哲学」の中でこう述べている、

哲学に望む

「日本の哲学についていいたいことは、どうも表現の技術が進まないということです。私はいわゆるプロフェッショナルな哲学が全滅すべきだとは考えていないが、日本の言葉を自由にし、クリアにする哲学が出来れば美のためにも必要だと思います。そのためには単純な言葉でなければなりません。今日のようなむずかしい言葉で書く哲学は、私共が一番簡単な方法としては逃げることです。(中略)今日まで、哲学をむずかしくしたのは訳語の選定がわるかったことと、人によって訳語が違うことです。それをちっとも断っていないから混乱を免れない。それが哲学を不人望にしたのだと思っております。しかし、それだからといって彼らをまるっきり押出さなければならぬと考えてはおりません。これから先、解り易い百万人の哲学というのが生まれれば私も或は読むかも知れません。」

今祖父が生きていれば僕と同じ事を言うに違いないと確信している。(これは2011年5月2日の日記の復刻である。)

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