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2018年1月

2018年1月27日 (土)

特別企画:「何故日本のリベラルはファッショに走るか」

自分が幾ら正論を吐いても相手がそれを即実践するのを期待するのはエゴであり、エゴは絶対に避けるべきであるというのが筆者の持論であるし、そもそも正論を吐く事すら憚れる昨今である。

今まで何度となく書いてきたし今更悪びれて言い訳に終始する詭弁を弄する日本人に真正面から真面目に対処する方がおかしいくらいの世相であるが今回の西部氏の死をある区切りとして自分なりの考え方を纏めておきたい。

今までも日本の学者は退官しないと本音を言わないとか、日本は遅れているのじゃなくて違っているのだと言い訳に終始して来た学者連中、普遍主義国でも上手く行ってないからと日本を正当化した叔父や日本にも科学はあると一言言って席を立った親父の世代の学者に嫌気がさしていたが、次の世代の渡部昇一、西尾幹二、田中英道そして今回入水された西部邁氏、ブルータスお前もかという感じである。

普遍主義は日本人にとってある種の鬼門であり、学者は一度はその壁にぶちあたる、所謂近代の超克である。
西部氏も自裁される覚悟をした後去年の暮れにウーマン村本氏にその事を話したそうだ。

筆者はたまたまバブルマネーの恩恵を受けて、10年間は何もしないで日本の特異体質を追求出来たので実にラッキーだったが普通はこうは行かない。
今の日本の学者で筆者みたいに、イタリアルネサンス、柳田國男、近代文明の淵源、普遍主義について研究出来る人間はいないのじゃないか。

筆者が会社を辞めて家に篭って日本の特異体質に想いを巡らせていた時文、渡部昇一氏は知的生活の方法の研究時、西尾幹二氏は個人主義の研究時、田中英道氏はダビンチの研究時、そして今回は西部邁氏、皆一時自分の抱えていた疑問にきっと何か答えを出して頂けると期待した面々である、全て裏切られた、 これで日本の学者を信じろと言う方がおかしい。

最初の頃は普遍主義に傷付いた全共闘の生き残りが、ナショナリズムの権化となり民俗学を駆け込み寺に利用したなどと言っていた、柳田國男は普遍主義に逆らってはいたが傷付いてはなかったとも。

少し前迄は自分は哲学的には普遍主義を採り政治的には大和民族党だと言って憚らなかったし、そこには大きな矛盾がある事も承知していると言って、矛盾を看過して生きてきた。

それを今回の改憲騒ぎで自民党草案が、前文の人類普遍の原理或いは人権条項を削除しようとしてる事を知り、日本は既に自分の居る国でないと判断して、最後の矛盾を取り除く為にオーストラリアの市民権を取り国籍離脱を果たした。

結局日本人は普遍主義を拒絶しているので、統一規範の選択肢が右傾化するか左傾化するかのどちらかしか無い。
自由が無いという意味ではどちらも社会主義である。
結局リベラルがファッショになったのではなくて、名称を変更しただけで中身は同じだって事である、結局選択肢がないと言う意味で一緒なのだ。

加計疑惑での前川氏の会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。

自分はオーストラリアに帰化する事で和魂洋才の捻れから逃れ洋魂洋才の環境で哲学的にもリベラル政治的にもリベラルを標榜出来る様になったと言ってるが、田原総一郎氏でさえ自由主義国は哲学的にリベラルでその下に政治的に保守かリベラルがあるって理解してないから日本人には無理な話なのかも知れない。

田原総一郎氏が高校生に他の国は保守とリベラルの二大政党制なのに、日本は両方ともリベラルだから対案が出せないとか説教垂れてたが、彼は以前も明治維新で西欧では一神教だから現人神にしたとか曖昧にぼかしてたけど、西欧は普遍主義つまり政治的にリベラルの元に保守と革新があると何故言わないのだ。

自由主義諸国では普通哲学的に普遍主義で、政治的に保守と革新に分かれるべきところ、
日本には哲学的にリベラルなんて概念は無い、その上日本では紛らわしい事に革新をリベラルと呼ぶから始末が悪い。
哲学的に保守で政治的にリベラルなんてあり得ない。

日本が聖俗未分離の前近代社会である事、近代文明が西洋文明である事から鑑みて近代文明を構築している普遍主義を避けては通れない。
それを避けて通っているのが日本である、結局日本人は文明化したくないとも言える。
だから、近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法も普遍主義で構築されているにも関わらず憲法を守れと言うとリベサヨ扱いになる。
普遍主義(洋魂)は避けては通れないのに避けて通ろうとする、洋魂は和魂で代替出来ないのに無視する。
結局普遍主義を拒絶している事に他ならない。
和魂洋才の捻れから逃れる為には洋魂洋才の環境で帰化するしか無いのである。

かくして、西部氏は入水し、自分は国籍離脱をしたという訳だ。

哲学的にリベラルの概念が欠如し保守だけの日本で政治的にリベラルを標榜する程馬鹿らしい事は無い。
西部氏も無くなった今、近代の超克を宮台、東野、津田、古市に出来るとも思えんし、もう日本人には何も期待出来ない絶望である

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