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2016年9月

2016年9月11日 (日)

【復刻版】続9/11に想う

ポストモダン

机上の空論
これは、普段の評論的コメントが如何に机上の空論的であって、平時にだけ通用し、戦時にはからきしである事を自戒を込めて再考し、今こそ日本人として独自の視点に立って意見を表明すべきであるとの、柳田の私見を纏めたものです。
次の文はNAKKOさんが私の掲示板に書き込みして下さった時に、私がそれに応えて書き込みをしたものであり、その後まなちゃんも同じ様なコメントを書き込みして呉れて、結局三人とも従来の視点からだけでは充分な答が導き出せないで、頭の中だけで考えが空転してしまったみたいである。
お立ち寄り有難うございました。 投稿者:柳田芳秋 投稿日:2001/10/05(Fri) 08:57 No.1421
実は僕も筆が進まないので、家で豚の角煮の研究なぞに励んでいました。 仰る通り、自分にはどうしようもない世界で変化があり、それでも自分は通常どおり生活を維持して行かなければならない。こんな時にも人間は自分の家族の事で想いをめぐらせ、同時に今晩何を食べようかと悩み、明日何を着ようかと悩む、つまり自分に出来る事は足元から固めて行く事だけであると再認識させられたと言うのもあります。
今迄は、「ポストモダンのエートスを求めて」とか、「パラダイムシフト」なんて言って、机上の空論的自己満足で済んでいました、つまり、モデルをアメリカに置いて、西側諸国の視点で書いていれば事足りていたのですが、世界の局面が少し先に進んでしまい、今までのマンネリ社会批判では到底追い着いて行けないような所に達してしまったみたいで、今度こそ日本も独自の考え方を世界に向かって表明する時が来てしまったみたいでもあります。
アメリカでは今度の事件を捉えて、自由に対する挑戦だとか言って居ますけど、どう見ても行き過ぎる自由に対する警鐘みたいなものを感じてしまい、米国追随型の日本が追い着かない内に本家本元は熟し切り行き詰まってしまった感もします。 結局この先このまま米国に追随すれば結果が明らかな時に、敢えてその道を選ぶという事は出来ないと言う事です。 東西冷戦時代は対共産主義という旗印がありましたけど、今回のは富と貧困、強者と弱者みたいな対比で、モチベーションがイデオロギーというよりもヘイトレッドですので、どちらかと言うと知性の問題と言うより、感性の問題ですので、ロジックを振りかざせば振りかざすほど空回りして、「それがどうした」って感じで逆効果みたいです。
結局世界は情報であふれ、アメリカの飴と鞭の使い分けとか、この期に及んでも結局は国のエゴの為に動くだけだと言う事が事細かく伝わり過ぎて、人間の限界を見せ付けられている感じもします。 ここで、割り切って自分に出来るのは足元から固める事だけだと思い切れれば良いのですが、中々そうも行かないのが人間で参ります。

一人一人の良識の範囲では、「暴力による解決は避けるべきである」というのは明白だと思う。 しかし、あのニューヨークでの大量の犠牲者を前に「報復行為は罪です、ただ祈りましょう」と明言する自信のある人が居ない。 我々の持ち合わせている通常の倫理規範では、首謀者オサマ・ビンラディン及びその組織アルカイダ、叉それを庇うタリバン報復を悪であると導けるだけの論拠が乏しい。 下手に良識を振りかざすと偽善者っぽくなってしまうし、かと言って国粋主義も現代的ではないし、恰も 「彼方は自己犠牲を払ってこの問題解決に尽力出来ますか」と問われているみたいなものであり、ヒポクリットかパトリオットかと選択を迫られた時に、今迄みたいに優等生をやっていられない程追い詰められてしまった様なものである。
結局は個人のエゴは許されなくても、国家のエゴは許されてしまうという事なのである。 国家挙げて「自由」を標榜していながら、彼等の所謂「自由」を望まない人達に対して、選択の自由を与えないという矛盾を生じる。 つまり、西側諸国の論理を、全く別の論理基盤に則った人達に対して押し付ける事になってしまう。 皆一様に気が付いているにも拘わらず、他に判断規準の持ち合わせが無い為に、黙認してしまう。 それでもアメリカも気が咎めるのか、申し訳程度に、一般市民は自由を望んでいるに違いないという希望的観測により、「兵糧攻め作戦」と平行して救援物資を増やし、「北風と太陽作戦」ならぬ、懐柔策を練る。 これが選択肢を与えられたと言えるかどうかは疑問だが、「窮鼠猫を噛む」か「窮鳥懐に入る」かの選択肢が与えられた時に、かつて日本の「神風」、「腹切り」、「万歳」といった特攻を煽ったやり方と同じで、合法的集団レイプみたいなもんである。つまり、彼等も嵌められたのである。彼等は自由より先に何よりも平和を望んでいるのであって、自由の名の下に彼等の平和を乱し、それを制圧し如何にも我こそが救い主であるというような顔をするのはいい加減にやめてもらいたいものである。これではまるで、警察が最近犯罪が少なくて平和すぎて暇でしょうがないから、あのギャングを煽って内部抗争を起こさせて、腕が鈍るのを防ごうとしているのと同じである。
現にかつて猫を噛んだ鼠も、今では大きな懐に抱かれた手乗り文鳥みたいに飼いならされてしまったでは無いか。 日本はそれを一度経験しているのにも拘わらず今回もその同じ手口に加担しようとしているのである。 WTCがニューヨークじゃなくて浜松町だったらどうしたか、オウムが日本人じゃなくてイスラム原理主義者だったらどうしたか、もう一度考え直してみると、反対出来るのは日本だけしかないという事も言えるのである。今の平和憲法が押し付けられたと思っているなら、押し付けた方々の責任の下に判断を仰いでみたら如何なものか、憲法記念日だけに憲法の事を考えたり、終戦記念日だけに原爆の事を考えたり、おざなりなものでなく、只一つの原爆被爆国であり、平和憲法を保持する日本国として、少しはアメリカの自己矛盾を追求する姿勢が欲しいものである。 普段あれだけ押し付けられた普遍主義と言って毛嫌いしている割に、他の国に押し付ける手伝いはするって言うのじゃ、同じ穴のむじなと言われても文句は言えない。
今回のテロ事件が冷戦後の新しい紛争の形だとすると、ブッシュが十字軍を例に挙げて失言したり、イタリアの外相が、「彼らの文明は1400年前と変わらず、我々の文明の優越性にもっと自信を持とう」みたいな失言をしてしまうのを見ると、時代は12世紀に戻って新しい東西問題が生じてしまったみたいなものである。 つまり、これ等が失言になってしまう位、西欧文明と言うものの普及率は低いという事を自ら認めている事でもある。 大体東ローマ帝国がオスマントルコに侵略されて、多くの東側の学者が西ローマ帝国に流れ込んで、ルネサンスが興り、現在の近代文明を作り上げたという歴史的時点にまで遡ってしまった感じでもある。 つまり、これはローマ法王を含む西側諸国が究極の質問状を突きつけられたと言っても過言では無い。 「所謂、彼方方の信じる神ってのは一体何なんですか」と。

【復刻版】9/11に想う

ポストモダン

ニューヨーク・ワールド・トレード・センターテロ事件が教えるもの
今回のニューヨーク・ワールド・トレード・センターテロ事件を境に、人類はポストモダンのエートスを真剣に考えるべき時期に突入してしまった。下記は、私が、「ポストモダンのエートスを求めて」というテーマの下に書き綴ったものの一部であり、個人主義の観点から日米を比較したものであり、この時点では未だ、国家の在り方よりも個人の在り方に重点が置かれたコンテクストになっているが、今回のテロ以来の米国の態度を見る限りでは、最早、個人主義が安定しているとは言い難く、近代文明の危険性をもろに露呈する結果を招いている。これを機会に真の普遍性の追求をしたいものである。

個の行方
今迄日本の見本であり続けたアメリカは非常に好戦的な国である。 民主主義を守る為に世界の警察として日夜戦い続けているのであると言わんばかりに振る舞っている。まるでスーパーマンの台詞みたいである。 そのアメリカは自由を追求する余り世界中から移民を集め人種の坩堝と化している。 然し乍ら民主主義を守り通そうとする力には驚くべきものがあり、如何に国が暴れようとも国民個人個人は自由主義、個人主義を守り通して安定している。 これも自由を守る為の危険負担の原則が徹底しているからか、それとも個から全への循環システムがプロテクトとして働いているからか見上げたものである。 これぞまさに主権在民であり、真の民主主義と言える。 元々国民あっての国家であり、どちらが主でどちらが客かの問題である。 それに比べて日本はまるで逆の状態であり、国は一見非常に平和であるが国民一人一人は不安感に苛まれている。これこそ主客転倒と言うべきものである。 これは単に国は平和で個人は不安であるのと国は乱れても個人は平安であるの二者択一の問題なのだろうか。
国民一人一人のエゴのコントロールが出来ていれば国の政策も決まり易いが、それが無いと日本の国会の答弁の様に欺瞞的で不毛になり、政策一つ決めるのに常に手間取る結果を招く。 つまり、国のエゴは国益を守る為の国策となり、国民のエゴは利己主義となるのである。 残念乍ら、未だに戦争での殺戮は結果的に許されている状態であるが、今後は国と国とのエゴが益々取り沙汰される時代になると思われ、日本が一国家として諸外国と対等に付き合う為には、日本人も必然的に自力でするエゴのコントロールを余儀無くされるのである。 日本も国際化の波は防げず規制緩和の方向へ進んでおり、これから国民は増々自由競争の波にさらされる事になる。 先頃のリストラの問題にしろ、対策として安易に首を切るという現象が起こり、今迄本来実態の無い会社に忠誠を誓いをそれを守る為に一生懸命働いて来た社員を解雇するという本末転倒の様な状況になってしまっている。 一時は海外からも注目されていた終身雇用制は脆くも崩れ去ろうとしている。 今回の日本の企業に於けるリストラが所謂米国に於けるハイリスク・ハイリターンの自由競争によるものかどうか定かでないが、いずれにせよムラ社会神話の崩壊がすぐそこ迄来ている事は言える。 ここでも日本人のSafety &Securityに対しての無防備さが浮き彫りになって来る。
本来社会も会社も個人の集まりから成り立っている。 何の為の社会か何の為の会社か今一度考え直し、本末転倒、主客転倒を避け、日本独自の解決策が見い出せないものだろうか、それとも均質化の波に押されてしまうのだろうか。 この儘進めば日本人は無防備の儘、国にも守られず社会にも守られないで泣き面に蜂であり、早急に個の確立を急ぎ、自分で自分を守るという国際社会の基本を身に付けないと、踏んだり蹴ったりという状態は避けられない。 果して日本の個の行方は如何に、という切実な問題なのである。 然し、これは逆から言えば柳田國男の言う、自己内部省察の良いチャンスとも言える。 この事は、現在の我が国の立場を観察していれば判る事であり、個人も然りである。 人間は八方塞がり、或いは四面楚歌になった時こそが、チャンスなのであり、それは、外面に拡がれない時には、内面に入り込む事しか出来ないからなのである。 これが、柳田國男の言う、「内省」という物なのである。

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