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2016年8月

2016年8月14日 (日)

【復刻版】科学は宗教ではない、(原文のまま)

平成23年4月11日 

  僕にとって今回の原発事故は再度の敗戦に等しい。 今回の一件にしろ、第二次世界大戦当時の集団ヒステリアと大差ないのではないのか、以前から考えていたのだが、科学そのものが一種の宗教のようなものだと言う事で、科学を過信してる学者が如何に多いかということである。 今回の原発事故で再度考える機会を与えられたが、今はっきりしたことは、戦後天皇の人間宣言と共に拠り所を失った日本人にとって科学そのものが宗教化していたのじゃないかという事である。
  フリーメーソンの起草による日本国憲法の前文に「人類の普遍的原理」とあるが、日本にはこの普遍性追究姿勢が欠如している、つまり、日本には「国是」が無いに等しいのである。 そこで登場したのがアメリカ産のプラグマティズムであり、第二次大戦で優秀な人材を失い残っ二番手の学者共(我が父親を含む)がこぞってこのプラグマティズム所謂「科学教」に入信したみたいなものである。
  これを聖俗未分離、当たるも八卦、当たらぬも八卦、一か八かのホーリズムと呼ばないでなんと呼べばよいのだろうか。 こうしてみると、科学一辺倒の時代に育った僕が、受けた教育と社会との齟齬に如何に振り回されたのか納得が行く。 実は今回の東日本大震災の引き起こした原発騒ぎでこれ以上の追究がもう無駄なのではないのかと思い始めた。 前述の渡辺東大名誉教授の『科学史事始』以来日本の特異体質の更なる追究は止めたものの、国際個人学研究所なんてのをネットに立ち上げ、スティッカムで配信まで始めて、自分の考えを発信し続けたが、馬耳東風、特に2chなんてのは日本の世間の典型であり、匿名でたたかれ続けるのが落ちである。
  先ずは個の確立をして、内なる神を見出す事なんて悠長な事を言っている場合じゃない、近代文明が一神論の背景がなければ機能しない事を忘れるところだった。 少なくとも科学というものは真実が真っ先に来なくては行けない、真実なんて二の次で先ずは美意識からなんてお格好つけてる日本人には所詮無理なのだ。 2chとかけてなんと解く、放射能と解く、その心は、見えない敵、、なんて冗談言っている場合ではない。
  以前バブル全盛の頃、「パールハーバーで失敗したので、今回はハワイを買おうとしている日本人」なんて冗談を飛ばし、ハワイのイミグレーションで「今回の渡布目的は」なんて訊かると、「ハワイを買いに来た」なんて言ってオフィサーと大笑いした記憶が懐かしい、まさにリメンバーパールハーバーである。

【復刻版】今日本人に求められる意識改革(原文のまま)

平成2346

今回の東日本大震災による原発事故程僕の人生にインパクトを与えた出来事はない、日本の特異体質を如実に捉えた実に象徴的な出来事だった。

社会に出て以来、学校で習った事が社会で通用しないと知り、日本は真善美が衣食住に反映されていないと言う疑問を抱き、以来追究し続けて来た、それが和魂洋才に表される輸入の学問いわゆる翻訳文化から来る弊害だとの結論に至った迄は良かったのだが、その先にそれをいみじくも証明するこんな象徴的な出来事が待っている事など想像だにつかなかった。

正直言って僕は原子力がこれ程恐ろしいものだとの認識がなかったのである、毎回原発事故がある度にその隠蔽体質には疑問を持っていたのも確かだが、まさかそこまで同朋が無茶をする等夢にも思わなかったのである。

つまり僕は半生をこの和魂と洋才の齟齬に翻弄されてしまったとも言えるのである、いや日本人全員が翻弄されつつある現在進行形なのかも知れない。

僕は「日本人は輸入した真善美を美善真と勝手に並べ替えて真を一番最後に持って来てしまった」といつも表現するのだが、日本人は美意識先行型で真実が最後に来ると思うと妙に納得が行くのである、つまり真実等二の次で体面、保身の方が大事な隠蔽体質なのである。

日本は国家形成が早く統一規範としての宗教が必要なかったと宗教学者さんは表現するらしいが、所謂宗教改革或いはルネサンスと言うものがなくてここまで至ってしまったので、二元論を唱える人間も不在な為に西洋の聖俗分離と言った科学の発生する土壌が出来なかった。

この前近代的な聖俗未分離状態が一か八かの当たるも八卦当たらぬも八卦と言う危険性を孕んだまま明治維新に近代文明を受け入れてしまったのである。

つまり日本人の原動力(エートス)は正義でもなく、使命感でもない、情緒なのである、善人面した内弁慶の負け惜しみと思って間違いが無いと言っても過言ではない(やっぱ言いすぎかw)。

これが僕が日本人は近代文明学各論は得意だが総論は落第生であると言う所以でもある。

昔から日本は海外の文化を器用に取り入れてここまで発達して来たと言われる、これは揺るぎも無い事実であるが、僕はこれを日本人の都合の良いとこ取りと呼んでいる、良いとこ取りは歓迎されてしかるべきであるが、都合が良ければ悪いところでも取り入れると言うのは頂けない。

ご存知のように第二次世界大戦までは国家神道により天皇を神格化して現人神を創り上げなんとか秩序を保ったが第二次世界大戦という大きな間違いを起こし、敗北の末、天皇も人間宣言をし、フリーメイソンの草案に拠る現在の日本国憲法の下に再出発を余儀なくされたのである。

僕が日本は世間主義人民共和国だと揶揄する通り、日本の自由主義、個人主義は似非であり、それを学者さんは共和主義的個人主義だとか経済的個人主義だとか負け惜しみで呼ぶが、大体個人の自由と言うものは神とのお約束事であって政府とのお約束事ではない、私権の行使と個人の自由を同次元で考えている限り個人の自由を理解することは出来ない。

今回の事故は、この科学の発生する土壌が無かった事に相俟ってそれに更に上乗せして災いしたのが日本人の美意識先行型の国民性なのである。

日本では西洋から学んだ社会は建前であり、本音は昔の世間そのものなのである、一神論の背景の無い日本では正義すら相対的であり、世間そのものが正義なのである、つまり国民は世間の顔色を伺いながら自分の意見は述べないのが日本なのである。

つまり絶対的な規律がある軍隊ならまだしも、正義すら相対化するなかでサラリーマンが原発を運営するのには無理があるのだ、結局長いものには巻かれろなのである。

訊く所に拠るとそう言った中にも内部告発する正義感の強い人間も皆無ではなかったらしいのだが、保安院にちくると即そのまま上司に伝わってしまうので皆びくびくしていたと言う。

今回の大惨事はお隣の中国、北朝鮮ならさしずめ責任者は粛清されている、日本は下手に似非の自由があったものだからもっと始末が悪い、結局与えられた自由は有り難味が薄く身につかない、なぜなら自由は勝ち取るものだからであろう。

教育勅語があった時代の方が平和で秩序が保たれていたなんて、なんと皮肉な事なのか。

今ここで日本人が目覚めなければ日本が世界に取り残される事は必須である、今日本人に必要なのは意識改革であり、原発ではない。

最後にお詫び致しますが、狂四郎今回の大惨事でかなり心を痛めておりますので、推敲もままならず、論理の飛躍、過激な表現等垣間見られるかも知れませんが平にご容赦頂く様にお願い申し上げます、これもひとえに国を愛する気持ちから生じたものとご斟酌下さい。

【復刻版】そして悲劇は起こった

平成2342

日本は観念的に或いは理念的に破綻しているのではないのか、(原文のまま)

今まで毎日のように日本の特異体質について考え、如何にしたらそれをあまねく人に伝えられるかなんて手をこまねいていて、半ば諦め状態でもう笑って誤魔化すっきゃないって「笑いが地球を救う」なんて標語を作っていた矢先に今回の東日本大地震が起きてしまった。

聞くところに拠れば想定外だったと言うのは嘘で明治にもっと大きな津波の被害を受けていたらしい。

日本は既に観念的に行き詰っているのだと思う、つまり和魂洋才の弊害、いわゆるCPUとOSの相性が悪いので、近代文明への対応が今ひとつしっくり行かないのだ。

今回の津波で引き起こされた原発の事故は人災とも言える位に全ての点において対応の甘さが見える、これは基本的な姿勢に問題があるとしか言いようが無い。

特に放射能は目に見えない敵と表現されるように不可視のものであり、即物的な日本人が取り扱うのに無理があるのではないのか、ここに象徴されるのである。 これが池田元久経済産業副大臣の「神のみぞ知る」発言に繋がるのではないのか、聖俗未分離状態の日本の一か八か、all or noneの思考回路で原発を扱うのは危険すぎる程、原発は神の分野なのである。

原子力は人類の叡智であるかも知れないが、日本人の叡智で無い事だけは確かである。

あれだけ、広島に続く、長崎の原爆投下で、嫌と言うほど原子力の恐ろしさは知っている筈の日本人がどうしてここまで考えが甘いのかが理解出来ない。

各国から協力の申し出があってもむげに断ったり、IAEAが避難基準を下回ったと避難勧告を無視し、日本の基準値はもっと精巧だとか言い訳ばかりで逃げるばかり、国民軽視の政策がいまだに取られている。

大体IAEAの事務局長はエルバラダイ氏の後任は日本人の天野氏ではないか、同朋の勧告すら無視する傲慢さは一体どこから出てくるのか。

ひどいところでは、各国から原発対応のロボットの提供があったにもかかわらず、それを扱える人間すらいないと言う、つまりいわゆる原発奴隷を使い捨てした方が費用がかからないと言う、言わば第二次世界大戦における人間魚雷の発想なのである。

そんな事を考えている時に僕が日本の特異体質の追究を止めるきっかけになった、東大名誉教授の渡辺正雄先生の事を書いた、黄ばんだ朝日新聞のテーブルトークと言うコラムの切り抜きを、旧いシステムオーガナイザー(バインデックス)の中に発見した。 するとその中にこんなような記載があるではないか、

「日米開戦の1941年に東大工学部を繰り上げ卒業。海軍の技術科士官を経て、敗戦時には東大第二工学部で応用力学を教える助教授だった。が、47年、その職を辞し、科学史の研究を志す。『日本の科学のあり方への疑問が大きくなってきたんです。戦争に奉仕し、人命もろとも戦艦に体当たりす る特攻機を生み出すような、日本の科学とは何だったのか。明治以来、西洋からの科学の受容の仕方に問題があったのではないか、と』」

今回の他国がこぞって原発用ロボットを開発している時に、東電は非人道的な原発奴隷の使い捨てをやっていたのだ、日本にとってロボット産業はいわゆる精密機械の分野で生き残りを図る為の重要な産業だと言うにも拘わらずだ。

コラムは更に続き、最後には、

「それは、最近の茨城県東海村の臨界事故などにも通じるという。『総合的観点の欠如により、本来人間のための道具であり、人類共通の福利を増進させるはずの科学技術が、人間より優先される本末転倒が今も続いているんです』」と続いている。

【復刻版】日本人の都合の良いとこ取り

平成221212日(原文のまま)

よく言われる事で、日本人は器用に海外の文化を身につけてここまで急速に発展を遂げた、その陰にかなりの犠牲を払っている事も確かである。

良いとこ取りってのはいいけど、都合の良いとこ取りってのは下手したら都合が良けりゃ悪いとこまで取り入れてしまうと言う事で芳しくない。

例えば、全体主義(ホーリズム)にアメリカの合理主義(プラグマティズム)を取り入れた為人間がロボット化して発展を遂げたのは良いのだが、人間がマニュアルに書いてない事が出来なくなってしまったとか、これは僕はひとえに僕の親父の時代の学者が合理化してはいけない教育に真っ先にプラグマティズム(〇×式)を取り入れた為と認識している。

一度親父に最近の若者がものを考えなくなったのは○×式の為じゃないかと言った事があったが、「何を言うかあれは自分たちが考案した画期的なものだ」と言われてがっかりした時もあった。

僕はこれを日本人の都合の良いとこ取りって呼んでるけど、ファーイーストでもない、かと言ってファーウェストでもない、ある時はアジア、ある時は西欧諸国と一緒みたいな恰もイソップの蝙蝠のように見える、どっちつかずってのは幾らなんでもまずい。

僕はひとえに日本は東洋のナチュラリズムでもないし、西洋のヒューマニズムでもない、ちょっと変わった独自のホーリズム、言わば、全体主義みたいなところがあって、All or None つまり全と無の間を行ったり来たりしていると思っている、

昨今の自殺率の上昇、出生率の低下なんて見ても、西洋みたいにAll and One という考えを導き出していれば、これほど迄に個人が追い詰められる事も無いのではないかと思う位である

親が子供に小言を言う時も、ある時は目上の者を敬えって、儒教的だったり、ある時は和をもって尊しとなせって聖徳太子だったり、ある時は何時の隣人を愛せよってキリスト教、行き詰ると、「社会ってこんなもんだよ」、「人生ってこんなもんだよ」って無常論を唱え突然仏教になっちまって、これじゃ子供がまともに育つわけもない。

日本国憲法の前文に「人類の普遍的原理」ってのがあるが、それが都合がわるいのだったら、「あかき、なおき、あおき、ただしき」に変えるなりしてらどうなんだ、国是が無いってのは致命的なんじゃないか、それとも人類の普遍的原理ってのを理解するかどっちかでしょ、

僕はあのK元総理がしたりがおで鼻の穴を膨らませて「俺の考えは人類の普遍的原理に基づいている」とうそぶいた時はさすがに腹が立った、一国の総理とあろう人間が国是を揶揄するってのはどうかと思う。

大体政治家も皆受け狙い、美意識先行型で、『美しい国』 なんて本まで書いた首相もいた、学問を輸入したとき、真善美ってのを勝手に美善真と並べ替えた上、真が三角形の頂点に来るべきものを、一直線に並べてしまったから、日本では真善美が衣食住に反映しなくなってしまったと僕は理解している、日本では真は最後に来ると考えると、納得の行く事も多いのが皮肉だ。

柳田國男も確か、「真はインターナショナルじゃなければいけないが、善と美はナショナルだ」とかかなりこじつけくさい事を書いていたように記憶している。

【復刻版】東日本大震災並びにそれに伴う福島原発事故に想う

 今回の事故は僕が20年来研究していた日本の特異体質が顕著に象徴的に表れた悲劇であった。

 下は未だ事故の起きていない去年の日記だが参考になるので載せてみた。

平成221130日(原文のまま)

考えさせられる、、個と論が欠如する日本で、如何にして聖俗未分離から脱却するか、個論::: 

またまた振り出しに戻ってしまった、 日本は国家形成が早かった為にいわゆる統一規範としての宗教が必要なかった、、、とはさる宗教学者先生の言葉だったと思うが、だからと言って、聖俗未分離、ホーリズム状態のままで良いって訳でもないだろう、駒大の佐々木宏幹先生が、「トランス状態になる必要はないが、皆がシャーマンになる位じゃないければいけない」みたいな事をお書きになっているのを見つけた時、禿同だったのを思い出す、、

日本人は違いを論うのは得意であるが、共通点で括るって事がやけに苦手みたいである、共通項で括るってのは因数分解の基本、科学の基本の要素還元主義であり、これが無いと拡散する一方で一向に収斂するという事が無い、まとまるものもまとまらないのである。

これは何故なのか、右脳と左脳が西洋人と違うなんて言った先生もいたが、右脳と左脳が分離していないコアラ状態なのか、まぁ、日本人は神様と競争するとか、神様の寝室を覗くとかえぐさが無いから、もともと科学の発生する土壌はないのだが、それにしても僕が造語した近代文明学総論は落第であるな、、でも各論は得意だから、面白い、皆そろって日本にも科学はある、こぞってノーベル賞を受賞してるだろうっておっしゃる、でも皆各論でしょ、それに大部分アメリカシチズンじゃないですか?

重要なのは総論であり、科学こそ専門馬鹿を作り出す元凶でもあるのだ、、

だからかのウォルフレンに日本人は論理と理論の違いすら判っていないと言われてしまう、これも翻訳文化の弊害だ、、

平成八年に年頭に当たって、これからは一切女々しい男とは付き合わないと宣言して久しいが、日本人の男性には内弁慶、言い訳ばっか言ってる人間が多い、、実に情緒的なのである、、ちょっと意見が合わなかったりすると、「君には失望した」とか言い出す、

ハワイに居た時、"I dont like mr,kyoshiro but what hes saying is right"といった坊やがいたけど、日本人だったらちょっと意見が合わないだけでさしずめ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い状態になるだろう。

「人生なんかこんなもんだよ」とか「社会なんてこんなもんだよ」とかすぐ無常論を唱える、社会は変えられるものだという意識が希薄だ、嫌だったら変えれば良い、僕は柳田國男が同じような事を書いていたのを見て嬉しかった記憶がある。

つまり日本人には個と論の概念が欠如しているのである、始めに言葉ありきじゃないのである、個も無ければ論もない、この状態でどうして個の確立が図れるのか、

個と論こそ、このホーリズム状態から脱却する鍵であると信じてやまない狂四郎である、、僕が言うところの個論:である。

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