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2013年6月15日 (土)

西洋のセオリー

【復刻版日記2011年5月26日】輸入の学問では日本人の心は解けないと言い続けて久しいが、僕は日本人の書いたものを読むといつも失望させられるのだが、そこには危機感が感じられないのだ、つまり自分が入っていないから危機感も感じないのだと思う。

したり顔で尤もらしく述べる人はいるけど、こうあるべきだって訴えるものが無い、今ひとつ説得力に欠けるのである、つまりそこには自分が入って無いからだろう。

西洋のセオリーってのは皆、聖俗が分離した状態を前提にしている、つまり自分がある事が前提になっているのだ。

従って、聖俗未分離でグループアイデンティティーと呼ばれている全体主義、つまりホーリズムの日本を、内的自己と外的自己の二分法で解けるものなのかという疑問である。

つまり、自己がないのに自己同一性(アイデンティティー)なんて語れるのかと言う事なのである、日本人のはアイデンティティーが無いと言うアイデンティティークライシスなのである。

今回岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」を読んでみて、実に共感を覚える部分も多い、「甘えの構造」だとか「モラトリアムの人間像」だとか、ああ、これはあの本も読んでるなとか想像出来る部分がかなり多いからだろう。
最後の「私の原点」なんか読んでも、僕が人格統合の為の自伝を書いた行為が精神科医が自分の精神分析を先ずするみたいなもので実に理解出来る。

僕は今回の東電と政府の茶番劇的カオスが第二次世界大戦の集団ヒステリア的カオスと同じようなものだろうと推察しているのだが、そうすると矢張り原因は聖俗未分離のオールオアナン、一か八か、当たるも八卦当たらぬも八卦のホーリズムにあると確信している。

僕の考え方は、元々、ソクラテスの時代は教科書なんて無かった、ソクラテスに考えつく事が何故自分で考え付かないわけが無いと言う考え方(つまり哲学とは自分で考える事である)なので、デカルトが方法序説で二元論を書いたように、その発想が日本人には不可能であるとは思いたくないのである、勿論その時代は前にも書いたように、デカルトだって神を一時横において、ボンサンスに眼をつぶって二元論を書いただろうし、神の存在ってものは絶対的なものだった筈である。
だからと言って僕はあたも神が外に存在するが如く21世紀になった今でも同じ手法で考えるのは嫌なのである。

ここに僕が「自分の胸に手を当てて考えろ」、「内なる神を見出せ」と言う根拠があるのだ。

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