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2013年6月12日 (水)

普遍性追求の旅

【復刻版日記2011年5月9日】40の時学校で習った事と実社会の齟齬に疑問を感じ会社を辞め、以来近代文明の淵源を探るべく、イタリアルネサンスの研究及び、祖父である柳田國男の研究を並行して行い、日本の特異体質とポストモダンのエートスについて深く追求して来た、僕が言う「惟神の道はローマに通じるか」の一言で言い表せる様な言わば普遍性追及の旅をしているわけだが、50の時に限界を感じそれまでの人生を半年間家に篭り自伝に纏め、それまで散り散りに乱れた人格を一つに纏める人格統合を試み、その後始めて出会った女性と結婚して今に至るのである。

僕は50迄の人生を理念編、女房と再婚した50からの人生を実践編と呼び、便宜上理念編を前世と呼んでいる。
つまり、僕のスローガンんである「国籍を超え、年齢を超え、性別を超え」の実践である、果たして27歳年下のオーストラリア人と結婚して主夫が出来るかと言う無謀な試みでもあった。

幸いな事に結婚11周年を向え、僕も還暦を過ぎ62になってしまった、マヌ法典で言えば遊行期に差し掛かっている、23歳だったヤンキーならぬオージーの茶髪も遅れ馳せながら32で大学を卒業し35で公認会計士の資格も取り今は36になり、一件落着、僕も肩の荷がおりて現在は安堵のひと時である。

そんな時静寂を破るように東日本大地震それに伴う福島原発事故が起き、普遍性追求姿勢も全能性追及姿勢も欠如する、いわば聖俗未分離の日本では科学すら宗教化して実に危険である事をいみじくも証明してしまった。

僕は今まで個の確立の重要性を説いて来たつもりだったが、個も論も無い日本と自分で言いながら、個の確立など期待すら出来ない事に気がつかなかったのだ。
つまり、輸入の学問では理解出来ない日本と言いながら、輸入の手法でしか説明出来ない自己矛盾を惹き起こしていたのである。
日本は僕が言う、ホーリズム、All or None、全と無の間を行ったり来たりしている聖俗未分離であり、先ずは個=1を導き出さない事には始まらないのである、無からは何も生じず、先ずは1を導き出す事なのである。
それには哲学の基本である自分を相対化して個=1の概念を括り出す事が必要なのであり、これが僕の言う「自分が無ければ始まらない」の所以なのである。
普遍性追求と言うのは、一言で言うと、共通項で括る事である、科学の基本である要素還元主義なのである、これは科学の基本原理である全能性追求姿勢の対極にあるのである。
違いばかり論う事に終始している日本人に普遍性の追求姿勢が生じさせるのは非常に難しい、それには先ず自分で考える事と言う哲学の基本が必要なのである。

「日本は潜在化しているタブーを健在化させ、差別を撤廃し、nationとしての国家から、stateとしての国家に脱却すべきである」なんて口で言うのは簡単であるが、言うは易し生むは難しである。

タブーの健在化、差別撤廃なんていっても一筋縄では行かないし、ましてや、ナチュラリズムとヒューマニズムのハーモニズムにホーリズムから一足飛びに行けるわけでもない。

かと言って普遍性追求の旅をやめるわけにも行かず、汝の隣人を愛せ、つまり足許から固めるしかない、つまり女房との普遍性追求の旅を続けるしかない。

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