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2013年6月12日 (水)

美化と自虐の二分法

【復刻】今回の東日本大震災とそれに伴う原発事故を見て、日本人の特異体質が顕著に現れた事は何回も述べたが、今までは美化と自虐の二分法だったのが、その中間に科学教信者が居て、原発推進を叫んでいるのが今回の特徴である。

僕は以前からAll or none、一か八か、当たるも八卦当たらぬも八卦の聖俗未分離と事ある毎に語って来たが、今回の原発事故により、かねてより疑問に思っていた日本人の科学に対する態度である。
これが果たして自虐=左、美化=右の二分法で解けるか、その中間にはわれ関せず炎の日和見、ノンポリが居る事は言わずもがなであるが、今回確信したのが、軍国少年が様変わりした科学少年なのである。

侵略戦争をひたすら謝り続け、靖国神社参拝に反対するのを自虐と呼び、南京大虐殺そのものの存在を否定し、A級戦犯を合祀する靖国神社を礼賛する人間を美化と呼ぶ、何のことは無い、双方とも情緒的なのである、これは史実に基づいているわけでもない、言わば記憶と記録の違いなのである。
記録と記憶ってのは作家の五木寛之さんがどこかで言った言葉だと思うが、結局、中国人或いは韓国人の半日感情もこの記憶がある内は幾ら記録を書き換えても収まらないと言う事と同じなのである。

僕が以前憲法記念日に想うという題で書いた抜粋だが、

「『改憲反対が強いのは六、七十代。この世代はトラウマ、つまり心に戦争の傷がある。しかし、三、四十代は日教組教育が弱くなって純真、天衣無縫。改憲賛成が多くなる』と中曽根氏の発言を取上げ、「つまり憲法は政党の問題ではなく世代の問題なのかもしれぬ。」と言い、『先の戦争の被害者がみんな生きているよ。だから、まだ早すぎるんだ。その世代がこの世からいなくなって論議して、憲法を変えていく必要があるならそれは結構だ』と後藤田正晴氏の言葉で結ぶ朝日新聞の記事を見て、憲法問題を世代の問題で考える姿勢に何か恐ろしいものを感じるのは私だけだろうか。」

こんな感じだな。

じゃあ果たしてその中間に位置する科学少年が科学的かと言うとそうでもない、彼らにとって科学こそ宗教なのである。
これが如何にも尤もらしくてつい騙されていたのだが、今回の原発騒ぎで馬脚を現してしまったのだ。
つまり聖俗未分離状態に科学の発生する土壌が無いとは良くいったもので、聖俗一致、心身一如状態では科学は無理なのである。
僕は常々日本は近代文明学各論は優等生だが、総論は落第生だと言って来た、これは和魂洋才にも表されるように、総論は輸入しなかったからである。
今回の原発事故が象徴的だと言うのは、この総論の欠如がもろに露呈したからなのだ。

何回も言って恐縮ではあるが、「これは絶対に漏れない原子炉です」、と言った舌の根も乾かぬ内に、放射能が漏れた途端に、「この先は神のみぞ知る」では到底科学的とは言えないのである。
つまり矛盾と言う熟語の語源がどの矛でも貫けない盾と、どの盾をも貫く矛に在る通り、盾の部分を格納容器に矛の部分を地震或いは津波に置き換えて見れば判り易い。

ここで言いたい事は日本は出来るだけ早くこの聖俗未分離の状態から脱しなくてはならないのだ、それには政治家が何をやっても駄目で、原始的シャーマニズムの親分の天皇が動かなかったら日本は変われないのである。
ご存知のように日本の教育は、どこを切っても金太郎飴の教育であり、誰がやっても政治が同じになるのは至って当然の事だからである。
それでは何を天皇がすれば国民が追随するだろうか、美智子妃が聖心女子大でのカトリックだから天

皇がクリスチャンになれば良いと言うのは余りにも短絡的過ぎる、だが、戦後マッカーサーがマニラでフリーメイソンになったように、あの時、昭和天皇がフリーメイソンになっていたら、憲法の前文にある「人類の普遍的原理」と言うものが生きて来ていた筈なのであり、今からでも決して遅くはないのである、なぜなら日本人にとって最も不得意なものがこの「人類の普遍的原理」だからである。(これは2011年4月26日の日記の復刻である。)

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