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2013年6月12日 (水)

自分が無ければ始まらない

【復刻】日本では本来歓迎されてしかるべき、自分を持っている人間をどういうわけか煙たがる傾向がある。
自分こそが哲学への入り口だと言う時に、自分を持っている人間を潰してしまったら、哲学など生まれようもない、哲学が生まれなければ、科学だって生まれるわけもないのである。

柳田國男が下記のように述べている、

「日本人の大多数は、まるで魚か渡り鳥の群れのように、みんなのする通りに行動するのが、最も安全なる活き方だと、信じているかと思うような、個性の没却が常の習いになっている。これには我々のまだ知らない深い原因があり、これによってこの奇抜な風土に適応し、種の保存には成功し、しばしば繁栄の機会をつかみ得たのかもしれないが、その代りには背後に血と涙と汗と、少なく流れるを喜ぶべき液体が多量に流れる。デマゴーグの最も効を奏しやすい国であり、普通選挙の根っから張り合いのない国でもあったのである。」

この「個性の没却が常の習いになっている。」没個性、どこを切っても金太郎飴式の教育こそが元凶なのである。
冬季オリンピックのスノーボーダー国母選手が制服をゆるゆるにして着て顰蹙を買い、蓮舫が作業服の襟を立てて個性を出そうとする、本来没個性であるべき制服(ユニフォーム=一つの形)で個性を主張しようとする、本末転倒が生じてしまうのもこんなところから来てるのかも知れない。

自分を幾ら持っていても阿呆じゃしょうがないかも知れないが、阿呆、阿呆といわれている内に自己の内面に深く入り込み、悟りを開くと言うのが哲学の究極の目的とすればまんざらでもない。

僕は日本人は自己遠心的(蚊帳の外)であり、当事者意識、参画意識が希薄であり、自己中心の方が未だ良いと言って来た、自己中心も四面楚歌になれば自己求心になるからである。

自己遠心も自己求心も僕の造語の為、ググっても出てないかも知れません。

僕が輸入の学問では日本人の心は解けないと言い続けるように、翻訳文化の弊害で、僕が近代文明学総論とか個人学、自分学みたいに造語しないと説明出来ない現象が日本には多々有るのである。

哲学の基本は自分を客観視して個人をくくり出す事にある。
相対化と言うともっと専門的に格好よく聞こえる、が哲学者の大部分は哲学史を披瀝し、デカルトがどうの、カントがどうの、ショーペンハウエルがどうの、所謂デカンショ節、プラトンがどうの、ヘーゲルがどうのスピノザがどうのとこけおどしに過ぎない。
昔の偉人が何を言おうとと自分が納得しなければどうにもならない、要は自分がどう考えるかなのである。

僕が自伝の序で書いた通り、

「私が会社を辞めてから、一時家に籠って悩んでいた事があった。色々な本を読んでも難し過ぎるし、考え疲れて、どうした物かと思案に暮れている時、ふと哲学とはこうして自分で考える事にあるのではないかと思い付いたのだ。 暫くした或日、本屋を歩いていた時、澤瀉敬久先生の『「自分で考える」ということ』という本を見付けて驚喜してしまった。この本はわたしにとって一生離せないと思う程度になる本で、いまでも一冊だけ良い本の名を挙げろと言われたら、文句無しにこの、『「自分で考える」ということ』を挙げると思うくらいである。」

大事なのは自分で考える事なのである。

この本の中で澤瀉敬久先生は、「自分で考えるの反対は、皆で考えるではなく、自分で考えない事だ」と言うような内容の事をお書きになっていたと思う。
僕は余りにも感動したので二度も感謝の葉書を出してしまった覚えがある、それに対して先生はご丁寧に二度ともお返事を下さったのである、さすが大学者は違う。

柳田國男も「私の哲学」の中でこう述べている、

哲学に望む

「日本の哲学についていいたいことは、どうも表現の技術が進まないということです。私はいわゆるプロフェッショナルな哲学が全滅すべきだとは考えていないが、日本の言葉を自由にし、クリアにする哲学が出来れば美のためにも必要だと思います。そのためには単純な言葉でなければなりません。今日のようなむずかしい言葉で書く哲学は、私共が一番簡単な方法としては逃げることです。(中略)今日まで、哲学をむずかしくしたのは訳語の選定がわるかったことと、人によって訳語が違うことです。それをちっとも断っていないから混乱を免れない。それが哲学を不人望にしたのだと思っております。しかし、それだからといって彼らをまるっきり押出さなければならぬと考えてはおりません。これから先、解り易い百万人の哲学というのが生まれれば私も或は読むかも知れません。」

今祖父が生きていれば僕と同じ事を言うに違いないと確信している。(これは2011年5月2日の日記の復刻である。)

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