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2013年6月11日 (火)

輸入の学問、翻訳文化どっぷりの日本人 

【復刻】余り翻訳文化を批判すると僕を目覚めさせて下さった翻訳者の木村氏に悪いので、躊躇するがこれは個人批判ではないので悪しからずご了承下さい。

そもそも西洋人が「俺は無神論者だ」なんて言っても社会的背景そのもが一神論をに基づいて機能してそれを利用しているんだからあてにならない、この日本人のホーリズム状態とは比べようもないのである。
大体デカルトだって神を一旦外に置いておいて、『方法論序説』を書いたのだろうし。

何故日本人がこの輸入の学問、翻訳文化の無限ループから出られないのか、自分で考えるって事はしないのか、考えてみても損は無いと思う。

これこそ福沢諭吉がinformationを情報と訳し、intelligenceを知識と訳した事による弊害なのではないのか、、情報を咀嚼し自分のものとした時初めて情報は知識になる、だれがこう言った、かにがこう言ったなんて言ってないで自分はこう思うって言って欲しいのだ。
それも皆翻訳だから何が言いたいのか皆目判らない、もっと咀嚼して自分の言葉で表現出来るようになるまで練れないものなのか。
柳田國男のスタンスは、「僕はこう思うけど、あなたはどう思いますか」ってどこかに書いてあったと思う。

下は僕の50迄の人生の記録である「自伝」の序の抜粋だが、

『以前フランスで哲学を勉強していたという友人に、「人生ってものは、日常の単純な営みに喜びを見い出せなければ負けだよね」と言った処、その友人が、「それはかつてスピノザが言いました」と尤もらしく、もうそれは古いと言わんばかりに答えた事がある。
秀才は兎角知識だけは豊富であるが、筆者はそれを敢えて知識と呼ばずに情報と呼ぶ事にしている。
あくまでも自分で簡潔に括り出すというのが基本だと信じるからである。
その時、以前筆者が離婚したかどで家を追い出されて所沢に独りで暮していた時、父親に、「俺は閃きというものは、平坦路では出ないもので、がたがた道を歩いている時に出ると思っている」と言った処、父が、「それはかつてキルケゴールが言った」、「エジソンも同じ事を言ってた思う」と答えた事を思い出した。
人が無い頭を振り絞って悩んだ末にやっとの思いで括り出した答を、いとも簡単にそれは誰々が既に言いましたいってのけられるのは大したものだと思う。
そういう人間に限って、頭の中の情報を咀嚼して知識に迄高める事が出来ないのである。
以来筆者は、カントがどうのヘーゲルがどうのと言う類いには耳を傾けない様にしているのである。』

何故自分はこう思うって言えないのか、主観のどこが悪いのだ、客観だって一度口から出れば主観でしょうに、だからこそ、主観を限りなく客観に近づける努力、自分を相対化するって事が重要なんじゃないのだろうか。

ここでさえ日本人がかくも自分を見つめる事に慣れてないかいみじくも括りだした感がある。 (これは2010年12月02日の日記を復刻したものである。)

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