« エートスなのかパトスなのか? | トップページ | 正義について  »

2013年6月12日 (水)

認識の限界

【復刻版日記2011年5月6日】以下は知人に依頼されて書いたDoCoMoの大人モードの原稿の抜粋であるが、いかんせんオーストラリアではIモードが読めないので出たのか出なかったのかも判らない。

「今度映画にもなったバベルじゃないが、お互いの認識をお互いに認識出来ないのが人間の欠点だが、言葉は所詮ツールであり言葉が通じても心が通じる訳でもないし、心が通じ合っていてもこの認識の限界を乗越えるってのは一筋縄では行かない。」

日本人は兎角阿吽の呼吸だとか言って、暗黙の了解を相手に期待してしまうが、僕は女房が西洋人なせいか、違うからこそ理解し合おうと努力するのだと思っている。
たまには息が合う相性が良い相方もいるだろうが、それにぶら下がっていると痛い目に合うと言う事である。

以下は僕がオーストラリアに来たばかりのころ、オーストラリアを二度手間の国、日本を片手間の国と呼んでいた頃書いた物の抜粋である。

「2001年7月の日記より」

「日本の正確無比な事務処理に慣れていると、西洋人が目的重視型でプロセスには余り重点をおかず、常に訂正出来るという融通の良さに憧れる気持がある反面、あのいい加減さが歯痒く、煩わしく感じられジレンマに陥る。つまり交渉次第で良い条件が得られるとか、話せば判るとかいう西洋流の目的重視型思考法では、思わぬ処に落とし穴があって、黙っていても安心という暗黙の了解が殆ど無いのである。つまり、「話せば判る」と言う事は、「話さなければ判らない」と言う事に通じるからである。」

オーストラリアでは個が社会より先に来るので事務が二度手間になり、日本は個が片手間に扱われているので秩序はあるが窮屈である、自由を取るか秩序をとるかの究極の選択を迫られた時自分は自由を選ぶと言う事である。

以下は僕が2002年頃自分のHPに乗せていた、オーストラリア滞在二周年記念コラムの一部の抜粋である。

「僕は昔から白人、特にアメリカを牛耳っているWASP(WHITE, ANGLOSAXON, PURITAN)はヒステリックになるという印象を持っていて、筋が通らない事を平気でゴリ押しして来たりする傾向があると信じている。」
「僕が「話せば判る西洋人」と言うのは「話さなければ判らない」事に通じると言うのも此処にある。日本人は兎角「暗黙の了解」とか「阿吽の呼吸」とかを求めて、話してもみないうちに諦めてしまうが、国際社会ではそんなものは通用しない。矢張り何事も試してみないうちに結論を出すのは止めるべきだと言う事である。」

ここで僕が言いたいのは、日本も一民族一種族なんて建前論で、阿吽の呼吸、暗黙の了解なんか無いのにも拘わらずコミュニケーションを怠り、お互いの誤解を解く努力もせずに看過しないで、nationとしての国家からstateとしての国家に脱却すべきだと言う事である。

« エートスなのかパトスなのか? | トップページ | 正義について  »

学問・資格」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1309252/52010092

この記事へのトラックバック一覧です: 認識の限界:

« エートスなのかパトスなのか? | トップページ | 正義について  »