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2013年6月15日 (土)

内的自己と外的自己の二分法

【復刻版日記2011年5月25日】今回の原発事故騒ぎでオーストラリアに居る僕がこんなに迄心を痛めて、腹まで痛くしてると言うのに、何故日本人はあまり感じてないみたいなのか疑問に思っていたが。
そういえば、日本人が皆と言う時どうも自分が入ってないみたいだ、日本人はって言う時も自分が入ってないみたいだとずっと疑ってたのを思い出した。
結局自分を抑えているのじゃなくて、最初から無いのじゃないかと思ってぞっとした。
自分が蚊帳の外なら傷も付かない筈である、これはセルフプロテクションの為に傷がつかないように自分自信を消してしまったのじゃないかとすら思った。

なんだかんだ思いあぐねて、他力と自力の二分法なんてのを書いたりしてみた、それでも緒が見つからないので今度は自我とは何ぞやと書いてみた、少し明かりが見えた、内容が専門的で判り難いが

自我が欠如すると、イドの発する衝動を止める事が出来ず、快を求め、不快を避ける快楽原則に支配される。
自我が欠如すると、自我から分化発達する超自我も欠如し、自我を観察し、欲動に対して禁止的態度をとることが出来ない。

つまり日本人はひたすら現実原則を避け専ら快楽原則に則って生きていると言える。

前回はここまで進んだ、そんな時、そう言えば、12年前に日本を離れた時友人が餞別に呉れた岸田秀の「ものぐさ精神分析」に何か乗っていたなと思い出した、その本を貰った時は和魂洋才についてはかなり探求した後だったので左程興味は沸かなかったのだが、今回自我の件で悩んで、これぞまさに精神分析だと思い読み直してみた。

てなわけで、内的自己と外的自己の二分法というのをやってみたい、

二分法は論理学の区分法から来るもので、二つの区分肢に分ける方法で、両断法とも言うらしい。

狂四郎にとっては両断法の方が、円月殺法一刀両断みたいで性に合っている。それは兎も角、【両断法】とは[朱子語録]から来るもので、ひとたちでまっぷたつに斬ること、の他に、断固たる処置をすること、決断の速やかなさまをいう、と広辞苑に書いてあった。

つまり簡単に言うと内的自我と外的自我が分裂して同一性に障害を来たしている、所謂アイデンティティークライシスを起こしていると言うものである。

アイデンティティークライシスについては、僕もエッセイの中で何回か言及した事はあるが、この岸田さんの本も僕が小此木圭吾先生の「モラトリアムの人間像」から始まる一連のシリーズをむさぼり読んでいた頃の作品なんじゃないかとも思った。

僕はここでの自我と内的自己あるいは外的自己がどういう関係にあるのか未だ理解していない。
薄ぼんやり理解出来るのは、明治維新、第二次世界大戦敗戦によって、日本人は内的自己と外的自己の同一性を失い、分裂症の症状を呈していると言う事らしい。
これから何回かに分けてこの辺を探ってみたい。

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