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2013年6月12日 (水)

サンデル教授のフィーバーについて考える。

【復刻版日記2011年5月4日】
たまたま最近オサマビンラディンがワールドトレードセンターテロから10年経った時に殺害されたニュースが入って来た。
2001年のこの事件の後僕は、自由がいらないと言っている人間に自由を押し付ける、所謂自由の押し売りについて書いた事を思い出す。

ポストモダン4
ポストモダン5
ポストモダン6

つまりブッシュが当時、"smok'em out and bring'em out to justice"みたいな演説をして、イラクに侵攻したのである。
この時思ったのが、人間が神になってしまうと、正義も気違いに刃物だと言う事で、麻原彰晃と何ら変わりはないと言う事なのである。

僕がその時書いたものの抜粋だが、

「一人一人の良識の範囲では、「暴力による解決は避けるべきである」というのは明白だと思う。しかし、あのニューヨークでの大量の犠牲者を前に「報復行為は罪です、ただ祈りましょう」と明言する自信のある人が居ない。」
「我々の持ち合わせている通常の倫理規範では、首謀者オサマ・ビンラディン及びその組織アルカイダ、叉それを庇うタリバン報復を悪であると導けるだけの論拠が乏しい。」
「下手に良識を振りかざすと偽善者っぽくなってしまうし、かと言って国粋主義も現代的ではないし、恰も「彼方は自己犠牲を払ってこの問題解決に尽力出来ますか」と問われているみたいなものであり、ヒポクリットかパトリオットかと選択を迫られた時に、今迄みたいに優等生をやっていられない程追い詰められてしまった様なものである。」

ベトナム戦争の時、社会復帰出来ない復員兵の為にビジョン心理学が開発されたように、今日本で爆発的人気のハーバード大学サンデル教授の正義論、或いは究極の選択もこんなところに切っ掛けがあるのではないだろうか。

もともと政治哲学には興味がないので、「リベラリズムと正義の限界」ってのは時間があったら読んでみたいが、あまり足しにはならんだろうと思う。
大体、哲学とは自分で考える事であると言いつつも、教授はカントがどういった、アリストテレスがどうのと哲学史を披瀝するだけに終始している。

これも以前オランダ人のジャーナリストウォルフレンが流行った時と同じに一過性のものじゃないかと危惧する、

その時僕は柳田國男を継承する会と言うHPに「国学」と「蘭学」と言うタイトルで文を載せた事がある。

「国学」と「蘭学」

「折角祖父が「新国学」としての「民俗学」を提唱したにも拘わらず、ただの「郷土研究」程度にしか理解出来ない日本の知識人に失望を感じさせらてしまっていたからである。」

「再び我々は「蘭学」をする事になりそうな気がする。」

と僕は書いたのだが、

興味深いのは彼がある著作の中で、

「私は幸い、この国で、多くの友人、真の友と呼べる友人に恵まれてきた。そして、彼らと無数の忌憚のない意見を交わしてきた。日本のほかの知人たちとも同様だ。しかし、会話が終わると、日本の友人も知人も、気苦労の多すぎる彼らの社会へとまた戻っていかねばならなかったが、私はその外にとどまっていられたのだ。」

と吐露したのである。

所詮彼も外来なのであり、日本人にとっては異邦人(一寸振り向いて見ただけの異邦人♪)なのである。

それが証拠に彼はこれを踏み台にしてアムステルダム大学の教授の職を得たのである。

ここで僕が言いたかったのは、聖俗未分離の日本では、科学が宗教化したのと同じに、哲学も宗教化すると言う事である。
僕が正義すら相対化する日本と言うように、個も論も無いつまり自分が無い日本では、世間こそが正義なのであり、それこそが僕が世間主義人民共和国と揶揄する根拠なのである。

願わくばサンデル教授のフィーバーが一過性のものでなく、日本人の心に自分で考える事こそ哲学であると気付かせ、根付かせて欲しいものである。

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