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2013年6月13日 (木)

他力本願 

【復刻版日記2011年5月21日】エゴ即ちsubjectーobjectと英語で呼ばれるように主体でもあり客体でもある、所謂主観的客観である。

僕は事ある毎に日本人はエゴのコントロールを他力的に行って来たといい続けて来た。
結局理解されるには至らなかったが、今回の原発事故を契機に今までばらばらだった要素が一纏めになり、「日本人には自分が無い」と言う事実に凝縮されているとの結論に達した。

『エゴのコントロール

エゴのコントロールは人間にとって非常に重要な要素である。
前述した様に、今迄日本人はエゴのコントロールを「世間」の中で他力的に行って来た。
戦後五十余年、日本人は自由を追求し続けた結果「世間」から飛び出しこの大事なエゴのコントロールを失ってバラバラになってしまった。これは、老若男女の混じりあった「世間」の構造の中で周囲の人間の眼によってエゴを律して来た日本人が、柳田國男の言う「異郷人ばかりが隣り合わせて住む」7 より大きな社会構造の中で、煩わしい縦の人間関係を極端に排除した為なのかも知れない。今日本人は都会化の波の中で、疎になってしまった人間関係をどうにかして密に戻そうとしているが、このエゴのコントロールが元来苦手な為どうしても傷付け合ってしまう結果をもたらしてしまい勝ちである。
これは山嵐がお互いの温もりを求めて身体を寄せ合うと棘で却って傷付け合ってしまうという、所謂山嵐のジレンマと言われているものであり、精神科の症状である。今日本人に課せられているのは、今迄他力に頼っていたエゴのコントロールを如何にして自力でコントロール出来るようになるかという事である。』
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『「世間」からの遊離

先日知り合いのアーティストと私が書いた論文について話していた時、筆者の「日本人はエゴのコントロールを他力的に行っていた」と言った言葉に過剰反応を示した。
「日本人は自分を客観視するのが得意でない」という点については、彼は、「日本人も海外にどんどん行くようになって、自分を客観視するチャンスは増えている」と言っていた。自分を客観視するのは何も海外に行かなくても出来る。
客観を客観視するのは誰にだって出来るとその時思った。
矢張り日本人は自分を客観視するのが苦手な様である。
彼は更に「もっと柳田さんも「世間」に受け入れられる努力をしろ」とも言った。
勿論私は自分から日本の前近代的「世間」に逆らって生きて来た事は確かである。
だが私の場合は自分でした事であって、「自力」である。
私の言いたかったのは「他力」に頼っていた人間が拠り所を失いつつあるという事である』
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『個の行方

国民一人一人のエゴのコントロールが出来ていれば国の政策も決まり易いが、それが無いと日本の国会の答弁の様に欺瞞的で不毛になり、政策一つ決めるのに常に手間取る結果を招く。
つまり、国のエゴは国益を守る為の国策となり、国民のエゴは利己主義となるのである。残念乍ら、未だに戦争での殺戮は結果的に許されている状態であるが、今後は国と国とのエゴが益々取り沙汰される時代になると思われ、日本が一国家として諸外国と対等に付き合う為には、日本人も必然的に自力でするエゴのコントロールを余儀無くされるのである。』
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