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2013年6月

2013年6月15日 (土)

聖俗未分離なのか分裂症なのか

【復刻版日記2011年5月27日】ひょっとして、聖俗未分離の状態ってのは、精神科医或いは心理学者からみると、分裂症と同じ症状に見えるのかも知れないと今朝ふと思った。

てなわけで、今日は岸田さんの言うところの、「内的自己と外的自己」を少し内容に迄踏み込んで検証してみたい。

最初は彼の和魂洋才についての叙述を見てみよう、

「はじめに結論めいたことを言えば、日本国民は精神分裂病的である。しかし、発病の状態にまで至ったのはごく短期間であって、たいていの期間は、発病の手前の状態にとどまっている。だが、つねに分裂病的な内的葛藤の状態にあり、まだそれを決定的に解決しておらず、将来、再度の発病の危険がないとは言えない。現在は一応、寛解期にある。」

「和魂洋才とは外面と内面を使い分けるということである。これこそまさに精神分裂病質者が試みることである。あるいはこう言った方がよければ、ある危機的状況にあって、外面と内面との使いわけというこの防衛機制を用いることが、精神の分裂をもたらすのである。」

ここなんか、前々回に僕が、自分が蚊帳の外なら傷も付かない筈である、これはセルフプロテクションの為に傷がつかないように自分自信を消してしまったのじゃないかとすら思った、と書いた通りなのじゃないか。

これはどちらかと言うと本音と建前の使いわけに似ている、僕が何度も言うように、輸入の社会は建前であり、本音は依然として「世間」なのである。

「外的自己と内的自己とを使い分け、外的自己を危機的状況、脅威的外的に対処するための一時の仮面とするならば、内的自己は外的自己に対するコントロールを失い、そのうち、外的自己は内的自己の意思とは無関係に振舞いはじめ、その行動は自分ではなく他者によって決定されるかのように感じられてくる。つまり、内的自己から見れば、外的自己はむしろ敵の同盟者のようにうつる。他人が自分の内奥まで踏みこんでくるという被迫害感の起源はここにある。」

これなんかはまさに、今回の東電の二転三転四転すらした今回の塩水注水騒動である。
結局担当者は宰相の恫喝も、原子力安全委員会の進言も、本社との電話会議にも従わず無視して注水し続けたと言う茶番で終わった、あのヒステリアそのものである。

今回の3ヶ月後に次々とメルトダウンの告白をし始めた東電の姿は、僕は、追いつめられた女性が突然衝撃の告白をし始め、男を苦悩のどん底に突き落とすような自棄としか言いようの無いサディスティックな行為であると思うのと似ている。

そして、ついに発病に至るのであるが、

「対米英宣戦布告はまさしく精神分裂病の発病である。突然奇妙な行動をしはじめるとはたの者には見えるが、発狂した者の主観としては真剣なのであって、これまで無理やりにかぶせられていた偽りの自己の仮面をかなぐり捨て、真の自己に従って生きる決意をしたときが、すなわち発狂なのである。」

つまり、社会的な自分と本当の自分と言っても良いのかも知れない、まぁ自分があればの話だけど。

岸田さんの文章にオールオアナッシングという聖俗未分離の特徴が出て来るところが一箇所ある。

「日米の戦いは精神対物質の戦いであると言われた。日本の本当の戦争目的が現実的、合理的打算よりはむしろ、危うくされた自己同一性の回復という精神的なものにあったのだから、精神主義は必然のなりゆきであった。現実的、合理的打算が目的ならば、そもそも戦争をはじめなかったであろうし、たとえはじめてしまったとしても、もっと傷の浅いところで手を引くことができたであろう。交渉によって有利な条件で手を打つことができればいつでも戦争をやめるという態度はまるっきり欠けていた。ただひたすらに全面的勝利か玉砕かという小児的なオール・オア・ナッシングの原則に動かされていた。」

僕は今回の東電と政府の茶番劇的カオスが第二次世界大戦の集団ヒステリア的カオスと同じようなものだろうと推察しているのだが、そうすると矢張り原因は聖俗未分離のオールオアナン、一か八か、当たるも八卦当たらぬも八卦のホーリズムにあると確信している、と前回書いた通りである。

西洋のセオリー

【復刻版日記2011年5月26日】輸入の学問では日本人の心は解けないと言い続けて久しいが、僕は日本人の書いたものを読むといつも失望させられるのだが、そこには危機感が感じられないのだ、つまり自分が入っていないから危機感も感じないのだと思う。

したり顔で尤もらしく述べる人はいるけど、こうあるべきだって訴えるものが無い、今ひとつ説得力に欠けるのである、つまりそこには自分が入って無いからだろう。

西洋のセオリーってのは皆、聖俗が分離した状態を前提にしている、つまり自分がある事が前提になっているのだ。

従って、聖俗未分離でグループアイデンティティーと呼ばれている全体主義、つまりホーリズムの日本を、内的自己と外的自己の二分法で解けるものなのかという疑問である。

つまり、自己がないのに自己同一性(アイデンティティー)なんて語れるのかと言う事なのである、日本人のはアイデンティティーが無いと言うアイデンティティークライシスなのである。

今回岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」を読んでみて、実に共感を覚える部分も多い、「甘えの構造」だとか「モラトリアムの人間像」だとか、ああ、これはあの本も読んでるなとか想像出来る部分がかなり多いからだろう。
最後の「私の原点」なんか読んでも、僕が人格統合の為の自伝を書いた行為が精神科医が自分の精神分析を先ずするみたいなもので実に理解出来る。

僕は今回の東電と政府の茶番劇的カオスが第二次世界大戦の集団ヒステリア的カオスと同じようなものだろうと推察しているのだが、そうすると矢張り原因は聖俗未分離のオールオアナン、一か八か、当たるも八卦当たらぬも八卦のホーリズムにあると確信している。

僕の考え方は、元々、ソクラテスの時代は教科書なんて無かった、ソクラテスに考えつく事が何故自分で考え付かないわけが無いと言う考え方(つまり哲学とは自分で考える事である)なので、デカルトが方法序説で二元論を書いたように、その発想が日本人には不可能であるとは思いたくないのである、勿論その時代は前にも書いたように、デカルトだって神を一時横において、ボンサンスに眼をつぶって二元論を書いただろうし、神の存在ってものは絶対的なものだった筈である。
だからと言って僕はあたも神が外に存在するが如く21世紀になった今でも同じ手法で考えるのは嫌なのである。

ここに僕が「自分の胸に手を当てて考えろ」、「内なる神を見出せ」と言う根拠があるのだ。

内的自己と外的自己の二分法

【復刻版日記2011年5月25日】今回の原発事故騒ぎでオーストラリアに居る僕がこんなに迄心を痛めて、腹まで痛くしてると言うのに、何故日本人はあまり感じてないみたいなのか疑問に思っていたが。
そういえば、日本人が皆と言う時どうも自分が入ってないみたいだ、日本人はって言う時も自分が入ってないみたいだとずっと疑ってたのを思い出した。
結局自分を抑えているのじゃなくて、最初から無いのじゃないかと思ってぞっとした。
自分が蚊帳の外なら傷も付かない筈である、これはセルフプロテクションの為に傷がつかないように自分自信を消してしまったのじゃないかとすら思った。

なんだかんだ思いあぐねて、他力と自力の二分法なんてのを書いたりしてみた、それでも緒が見つからないので今度は自我とは何ぞやと書いてみた、少し明かりが見えた、内容が専門的で判り難いが

自我が欠如すると、イドの発する衝動を止める事が出来ず、快を求め、不快を避ける快楽原則に支配される。
自我が欠如すると、自我から分化発達する超自我も欠如し、自我を観察し、欲動に対して禁止的態度をとることが出来ない。

つまり日本人はひたすら現実原則を避け専ら快楽原則に則って生きていると言える。

前回はここまで進んだ、そんな時、そう言えば、12年前に日本を離れた時友人が餞別に呉れた岸田秀の「ものぐさ精神分析」に何か乗っていたなと思い出した、その本を貰った時は和魂洋才についてはかなり探求した後だったので左程興味は沸かなかったのだが、今回自我の件で悩んで、これぞまさに精神分析だと思い読み直してみた。

てなわけで、内的自己と外的自己の二分法というのをやってみたい、

二分法は論理学の区分法から来るもので、二つの区分肢に分ける方法で、両断法とも言うらしい。

狂四郎にとっては両断法の方が、円月殺法一刀両断みたいで性に合っている。それは兎も角、【両断法】とは[朱子語録]から来るもので、ひとたちでまっぷたつに斬ること、の他に、断固たる処置をすること、決断の速やかなさまをいう、と広辞苑に書いてあった。

つまり簡単に言うと内的自我と外的自我が分裂して同一性に障害を来たしている、所謂アイデンティティークライシスを起こしていると言うものである。

アイデンティティークライシスについては、僕もエッセイの中で何回か言及した事はあるが、この岸田さんの本も僕が小此木圭吾先生の「モラトリアムの人間像」から始まる一連のシリーズをむさぼり読んでいた頃の作品なんじゃないかとも思った。

僕はここでの自我と内的自己あるいは外的自己がどういう関係にあるのか未だ理解していない。
薄ぼんやり理解出来るのは、明治維新、第二次世界大戦敗戦によって、日本人は内的自己と外的自己の同一性を失い、分裂症の症状を呈していると言う事らしい。
これから何回かに分けてこの辺を探ってみたい。

自我が欠如すると

【復刻版日記2011年5月24日】日本人には自分が無いなんて書いたからちょっと調べてみた。

自我とは何ぞや、

自我     self(哲)認識・感情・意志・行為の主体を外界や他人と区別していう語。
        自我は、時間の経過や種々の変化を通して、自己同一的なものという意識を伴う。
        身体を含むという場合もある。他我・非我

        (心)イ. 意識や行動の主体をさす概念。

        イドの発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする。
        パーソナリティー、または人格の側面。

イド      精神の奥底にある本能的エネルギーの源泉。
        快を求め、不快を避ける快楽原則に支配される。
        エス(es)ともいう。自我・超自我

快楽原則  不快を避けて快を求めようとする傾向。
        イドはこの原則に従う。<->現実原則

現実原則  現実生活に適応するため、快感を求める原始的本能的欲求を延期したり、永久に断念したりする         自我の働き。<->快楽原則

超自我    (superego)イド、自我と共に心を構成する要素の一。
        自我から分化発達し、あるべき行動基準によって、自我を観察し、欲動に対して禁止的態度をとる        もの。  

他我     自我に対する語。
        他人も自己同様我であるという意味で、他人の我を指す。

非我     我(または自我)でないもの。
        我の働きに直接属することなく、かえってその対象とし存立する世界・自然。

自我が欠如すると、イドの発する衝動を止める事が出来ず、快を求め、不快を避ける快楽原則に支配される。
自我が欠如すると、自我から分化発達する超自我も欠如し、自我を観察し、欲動に対して禁止的態度をとることが出来ない。

つまり日本人はひたすら現実原則を避け専ら快楽原則に則って生きていると言える。

2013年6月13日 (木)

他力と自力の二分法

【復刻版日記2011年5月23日】他力本願なんて書いてしまったので、自力について広辞苑をひいてみた、じりきと読むのとじりょくと読むので結果が違うのでご注意下さい。

前回自虐と美化の二分法ってのやったから、今回は他力と自力の二分法で行こう。

じりきとは、自分の力で修行して悟りを得ようとすること。

とある、

自力救済(じりょくきゅうさい)

権利者が国家権力によらず、自力でその権利を実現すること。
民法は原則として、私力による権利擁護を認めないが、盗品を奪い返すことなどは許されているとある。

勿論自力があれば他力もある

自力教が自分の力で修行して真理を悟ることができるとする教えなら、他力教ってのは他力によって極楽往を求める教えとある。

他力本願ってのは元々阿弥陀仏の本願で、衆生がそれに頼って成仏を願う事ともある。

転じて、もっぱら他人の力をあてにする事らしい、

ついでに自助ってのもひいてみた、

1.自分で自分の身を助ける事。
 他人に依頼せず、っ自分の力で向上・発展を遂げること。

2.(法)自力救済の意。
     国家が自力で他国の違法行為に対し自己こ国際法上の権利を守ること。

とあった、が日本の政府は韓国が竹島に海洋基地を造ろうが、ロシアが択捉島にミサイル基地を造ろうが、中国が排他的経済水域ぎりぎりに油田を掘ろうが何もしないじゃないか、結局日本は政府自体が他力教だと言う事がわかるね。
今回尖閣諸島で日中首脳会談するって言うけど、尖閣諸島に迎賓館でも建てたら良いかも知れません。
尖閣諸島は日本の排他的経済水域にあり日本の固有の領土です、沖縄と一緒に米国から返還されたものです。

結局日本は他力教の科学教であると言う結果が出た、当然と言えば当然だが、国民が他力本願なら政府も他力本願になるのは自明の理である。

僕が日本人は自己殖民型であるという根拠もここにある、イソップの蝙蝠の様に西と東の間をさまよう、僕が日本は果たしてファーイーストなのかファーウェストなのかと言う理由である。
つまり、アメリカが落ち目になったら中国の自治領にでもなれば良いと思ってるんだろうと揶揄したくなる所以でもある。
結局何回も言う様だが、日本は東のナチュラリズム、西のヒューマニズムのいずれでもなく、その間に位置するホーリズム(聖俗未分離)だからなのだ、自分が無いと言う事が如何に近代文明にそぐわないかが判る。
僕はこれ等は全て和魂洋才の弊害であると言って憚らない人間だが、自力と他力の二分法で見ても、結局自力でしか回らないシステム(洋才)を他力(和魂)で回そうとするから上手く行かないのではないのか。

他力本願 

【復刻版日記2011年5月21日】エゴ即ちsubjectーobjectと英語で呼ばれるように主体でもあり客体でもある、所謂主観的客観である。

僕は事ある毎に日本人はエゴのコントロールを他力的に行って来たといい続けて来た。
結局理解されるには至らなかったが、今回の原発事故を契機に今までばらばらだった要素が一纏めになり、「日本人には自分が無い」と言う事実に凝縮されているとの結論に達した。

『エゴのコントロール

エゴのコントロールは人間にとって非常に重要な要素である。
前述した様に、今迄日本人はエゴのコントロールを「世間」の中で他力的に行って来た。
戦後五十余年、日本人は自由を追求し続けた結果「世間」から飛び出しこの大事なエゴのコントロールを失ってバラバラになってしまった。これは、老若男女の混じりあった「世間」の構造の中で周囲の人間の眼によってエゴを律して来た日本人が、柳田國男の言う「異郷人ばかりが隣り合わせて住む」7 より大きな社会構造の中で、煩わしい縦の人間関係を極端に排除した為なのかも知れない。今日本人は都会化の波の中で、疎になってしまった人間関係をどうにかして密に戻そうとしているが、このエゴのコントロールが元来苦手な為どうしても傷付け合ってしまう結果をもたらしてしまい勝ちである。
これは山嵐がお互いの温もりを求めて身体を寄せ合うと棘で却って傷付け合ってしまうという、所謂山嵐のジレンマと言われているものであり、精神科の症状である。今日本人に課せられているのは、今迄他力に頼っていたエゴのコントロールを如何にして自力でコントロール出来るようになるかという事である。』
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『「世間」からの遊離

先日知り合いのアーティストと私が書いた論文について話していた時、筆者の「日本人はエゴのコントロールを他力的に行っていた」と言った言葉に過剰反応を示した。
「日本人は自分を客観視するのが得意でない」という点については、彼は、「日本人も海外にどんどん行くようになって、自分を客観視するチャンスは増えている」と言っていた。自分を客観視するのは何も海外に行かなくても出来る。
客観を客観視するのは誰にだって出来るとその時思った。
矢張り日本人は自分を客観視するのが苦手な様である。
彼は更に「もっと柳田さんも「世間」に受け入れられる努力をしろ」とも言った。
勿論私は自分から日本の前近代的「世間」に逆らって生きて来た事は確かである。
だが私の場合は自分でした事であって、「自力」である。
私の言いたかったのは「他力」に頼っていた人間が拠り所を失いつつあるという事である』
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『個の行方

国民一人一人のエゴのコントロールが出来ていれば国の政策も決まり易いが、それが無いと日本の国会の答弁の様に欺瞞的で不毛になり、政策一つ決めるのに常に手間取る結果を招く。
つまり、国のエゴは国益を守る為の国策となり、国民のエゴは利己主義となるのである。残念乍ら、未だに戦争での殺戮は結果的に許されている状態であるが、今後は国と国とのエゴが益々取り沙汰される時代になると思われ、日本が一国家として諸外国と対等に付き合う為には、日本人も必然的に自力でするエゴのコントロールを余儀無くされるのである。』
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少しは私に愛を下さい 

【復刻版日記2011年5月20日】少しは私に愛を下さい
♪一度も咲かずに散って行きそうなバラが鏡に映っているわ、♪

これは小椋佳がNYに赴任していた時自分の勤めていた勧業銀行が第一銀行とが合併した時に、NYCに居て疎外感を感じ悲しくなって作った曲だと記憶している。

今ユーチューブで小椋佳 来生たかお 井上陽水のステージを見て、オーストラリアに居て祖国の崩れて行く様に嘆く自分を重ね合わせて涙が出て来た。

よく日本は終わってるとか言う声を耳にするが、実は日本は始まっていないのである、つまり、自分が無ければ始まらないと言うように、日本人は自分がないから始められないのであり、従って終わりようもないのである、これが、一度も咲かずに散っていくバラなのだ。

僕が20年間追求してきた日本の特異体質に、自分が無いからと頭につけてやると納得出来る。

自分が無いから、付和雷同
自分が無いから、自己殖民型
自分が無いから、当事者意識の欠如
自分が無いから、蚊帳の外(自己遠心)
自分が無いから、自分で考える事(哲学)が無い
自分が無いから、自分の言葉でしゃべれない

これで柳田國男の括り出した日本人の特徴、僕が括り出した日本人の特異体質が皆あてはまる。

僕が今まで和魂洋才の弊害、輸入の学問の弊害、翻訳文化の弊害、と言い続けたものは全て、総論を輸入せず、各論だけを利用して今回の様な致命的に国土を汚染する原発事故を惹き起こした原因なのである。

つまり自分が無ければ、自分を客観視して普遍性追及姿勢も生じず、それが無ければ宗教さえ生まれず、宗教が無ければ全能性追求姿勢もうまれす、従って科学も生まれないのである、僕が日本では科学者も科学的でないと言う根拠はここにあるのだ。

個の確立が大人の基準であり、近代文明が進化の基準だとすると、日本人は子供であり、遅れていると言わざるを得ない。

この原発事故を教訓として意識改革を図らなければ日本は始まる事なく、聖俗未分離のまま終わるだろう。

科学者が科学的でないとどうなる

【復刻版日記2011年5月18日】今回の原発騒ぎで気付かされた事は多い、中でも、大分前に仮説として、中心に哲学を置き、全能性追求の姿勢で科学を生み出し、普遍性追求姿勢で宗教を生み出す、人間の思考回路を図説しておきながら、全能性追求姿勢も普遍性追及姿勢も欠如する日本で科学だけが正確に機能するわけもないと言う事に気が付かなかったのは不覚だった。

勿論自分或いは僕の親父を含む大部分の国民がって時に学者だけ例外だって事はあり得ない、つまり、僕が日本には科学の発生する土壌が無いと言った時に、「日本にも科学はある」と一言言って押し黙った生物学者の親父しかりなのである。

柳田國男の時代に僕が敢えてここで論う事が不要な程日本の特異体質は括り出されていた。

僕が柳田國男の日本人らしさの追求は図らずも現状にそぐわないものだったと事ある毎に書いていたが、少なくとも國男は眼を現在におき、常に改良を唱えて居た事である。

でも僕が調べた限り、学者さん達は違いばかり論い、負け惜しみの内弁慶的発言ばかりが目についた事も確かである。

僕の叔父である宗教学者の堀一郎ですら、違いを強調し、結局これだ、

「千年以上も前につくられた律法や戒律不寛容性を強調する宗教が人類の進歩にどれだけ将来貢献し得るのか。」
「近頃、イデオロギー運動の宗教化現象を見るにつけても、わたくしははなはだ懐疑的たらざるを得ないのである。」

と、他所が旨く行っていない事を盾に、自分を安易に肯定してしまっている。

あの世間についてお書きになってられる阿部謹也先生もしかり、

「この状態を見て、学者の多くは日本が遅れていると思っているようですが、私はそうは思いません。遅れているとか進んでいるという問題ではなくて、質の違う文明、文化なのだと思います。ヨーロッパの個人は十二世紀に生まれたのです。」

他にも例は沢山ありますが、詳細については僕の近代文明学総論、日本の特異体質、ポストモダンを併読して頂きたい。

三省堂から出た一語の辞典の作田さんに至っては、

「孤独の孤としての個の概念は虚構に過ぎない」みたいな事を言い切るし、そんな事言ったら、この世に普遍とか全能とか存在しないのだから、普遍性の追求とか全能性の追及なんて虚構に過ぎないじゃないの、この世に無いからこそ追求するんでしょ、あれば追及しないでしょうが。

そして最後には、日本の個人主義は共和主義的個人主義だとか経済的個人主義だとか訳のわからない事を述べ立てて終わり、結局学者さん達は日本が遅れていると言いたく無い為に違いばかり強調して、結局違いばかり論う日本人の特異体質もろだしでしょ。

皆只情緒的で事実を認めたくないのよね、結局、つまり、自虐と美化の二分法で書いたけど、間に存在する科学教徒なのさ、ちっとも科学的じゃないって事。

科学的じゃないって事は、科学の基本である要素還元主義が苦手だって事、だから、要するにってのが無い、只々難しい言葉を羅列して行数ばかり増やし、情報を咀嚼してから自分の言葉で述べるという事がないから、何を言いたいのかさっぱり理解出来ない。

日本人は大人か

【復刻版日記2011年5月17日】僕はよく、「生まれてすぐ大人になる西洋人、死んでから大人になる日本人」と言うが、今回の原発騒動をめぐる国会の答弁、東電或いは保安院の記者会見を見てると、嘘、言い訳の連続、まるで小学生並みの頭脳レベルである。

嘘も方便とばかりに保身に走る人間ばかりで真実が今ひとつ掴めない。

海外の裁判のドラマなんて見ると、必ず聖書に手を置いて宣誓している、大統領の就任儀式しかりである。

僕は以前裁判所の宣誓に日本は何を元に宣誓するのか調べたら、裁判所の随意と知って驚いたことがあるが。

姉が西洋人の友達に、「日本は十戒が無いけど、何を基準にして善悪の判断をしてるの」と質問されて答えられなかったと言っていたが、延喜式の、「きよき、なおき、あかき、ただしき」でも何等かの規範がないと秩序が保たれないだろう、特に今回の様な国難に直面したらなお更である。

よく良識に基づいてと言うが、果たして常識と良識の違いって何かを考えた場合、常識は相対的、良識は絶対的と考えるのが妥当だと思うが、正義さえ相対化する日本で良心或いは良識と言うものが正確に機能するかどうかは疑わしい。

下は前述のDoCoMoの企画の原稿一号だが、

『大人モードスタートおめでとうございます。

果たして大人モードとは如何なるモードなのか、Iモードならぬ曖昧モード、これこそ日本の大人モードの特徴であります、この曖昧モード、グレーゾーンを指摘した人間は村八分になることもしばしばありますし、これを真の大人モードと呼べるかどうかは甚だ疑問でもあります。

「あなたもいい年をして」とか、「あなたも少しは大人になりなさい」と言って発言を制する、つまり、真実を伝えて風波を立てるよりも、事勿れで行くのが、これが従来の日本の大人の取るべき態度と言われて来たものです。

読者の皆様も、真実を追究して、このような目に遭遇されたことが何度もあると思います。

矢張りこの曖昧モードを払拭しない事には、今盛んに取りざたされている、苛めの問題、談合の問題等対処しようがありません。

筆者はつねに、西洋人は生まれてすぐ大人になり、日本人は死んでから大人になると表現して来ましたが、個の確立こそが大人の条件だと確信するものです、個の確立と言うものには、自己の客観視と言う行為が含まれますので、幼年期にそれを行うと言うのには多少無理がありますが、基本的には大人であると言うことは年齢に一切関係ないと言うことです。

西欧社会では幼少時から自己に向き合う事を要求されます、ところが日本の場合は不思議なことに内省というものをあまり要求されないようです。
つまり、世間に干渉されるかわりに世間に守られていると言う側面も否めない事実なのです、大人の世界であるからには、今までのような「世間」と言う緩衝帯もたまには忘れる必要があります。』

この大人モードの企画だって、当初は対象が40代の男女だったのが、途中から30代女性の心と性の悩みに変わったので、馬鹿らしくなってやめさせて頂いたという経緯がある。

全てが金儲け

【復刻版日記2011年5月16日】僕は最近判って来たんだけど、結局日本人にとっては全てが金儲けだったって、つまり科学だって所詮金儲けの手段に過ぎなかったって事よね。

だってね論理のどこかで短絡してなかったら今回の原発事故みたいな結果が出るわけないでしょ、

科学の目的は=人類の幸せ、人類の幸せ=金儲け、 科学の目的=金儲け、

人類の幸せって果たしてお金だけなんだろうかって疑問すら持たないなんて良識を疑われても仕方がない。
僕はこの良識と言う言葉を使う時、つまりデカルトの言うボンサンスって言葉が神の居ない日本で果たして期待出来るのかっていつも思う。

論理の欠如だって良識の欠如だって、全か無か、一か八か、All or None、当たるも八卦当たらぬも八卦のホーリズム、つまり聖俗未分離の特徴なんでしょ。

つまり日本人は論理もへったくれも無いわけよ、短絡、短絡、まるで東電の集中制御室みたいだって言ったでしょ、結局日本人にとって、憲法の前文にある「人類の普遍的原理」さえ、金儲けにしか考えられないんじゃないの、まぁ一面は捉えてる事は確かだけどね、一理あるねって奴ですかね。

これであの竹中さんと組んで規制緩和を叫んで引っかきまわした小泉さんが鼻の穴を膨らませながらしたり顔で「俺の考えは全て人類の普遍的原理に基づいている」とうそぶいたのも納得が行くじゃないか、彼等もあれでかなり私腹を肥やしたって言うじゃないの。

科学が宗教だったって言ったたけど、同じ宗教でも現是利益追求の為の新興宗教だったって事。

そうでしょ、2,000円で買った壷や五重塔を2,00万で売ってる新興宗教と似てるじゃないですか、談合ってのがそんなもんでしょ、つまり原子炉が何億するか知らないけど、皆談合なんでしょ、技術なんて似たり寄ったりの一蓮托生なんでしょ、もともと半額で出来る原子炉を倍で売ってるのと同じなんでしょ。

つまり科学の技術的側面だけを利用しちまったって事、金が儲からない事は研究しないじゃ、真の科学とは言えないでしょ。

これでも、日本人は海外の文化を器用に利用してここまで驚くべき経済発展を遂げたと自信を持って言えるのか疑問でしょ、これこそ僕が良く言う日本人の都合の良いとこ取り、つまり都合が良ければ悪い事でも取り入れる日本の特異体質なんだよね。

これじゃ猿真似のイエローモンキーって言われても仕方ないじゃん、完全に発想の貧困さを露呈したみたいなもんでしょ、海外からエコノミックアニマルって呼ばれてた時と同じじゃん。

下の句が「それにつけても金の欲しさよ」って言う短歌みたいなもんだよ、

全も無く 個も無い国の 天高く 

民の声さえ 神に届かず

それにつけても金の欲しさよ

俺はこんな日本の事を考えると涙が出てくるのよ。

似非科学 

【復刻版日記2011年5月14日】科学は簡単に言うと人間の全能性追及の結果である、

東大の渡辺名誉教授によるとこうだ、

「科学とは、西洋の姿勢・文化、具体的にはキリスト教的世界観が生み出したものです。この世界を神の被造物と見て、自然を神のみわざを読み取ることができる『第二の聖書』と信じ、探求を積み重ねることで科学が誕生し、発展してきた。自然に没入し、自然と一つになろうとする日本の伝統からは、そもそも近代科学は生まれ得なかったのです」

全能性追求姿勢が欠如してる日本だと、現是利益の追求に終始し、科学の目的である全能性の追求姿勢がおろそかになる。
ギリシャの彫刻家のように何世代も掛けて一つの彫刻を完成させるなんて気の長い話は日本では少ない。

これは自分の在任中に新幹線を自分の地元に引いて、駅前に銅像を作らせようなんて代議士が考えているお国柄だからである。

アメリカの火星緑地化計画、みたいな気の長い話、確か100年掛けて火星に酸素を生じさせ、人間が住めるようになるまで10万年とか言う壮大な計画だっと思ったが、そのような発想は日本には無い。

今回の原発事故がきっかけで原発に代わる代替エネルギーとして、クリーンエネルギーへの移行と言う事が強く叫ばれるようになった。

最近原発のメーカーでもあるIHI旧石川島播磨重工で低コストの風力発電プラントが開発されたとも聞く、もし日本の科学者が最初からクリーンエネルギーを考えていたら、今になって慌てる事も無かったのではないかとも考えられる。

それとも原発こそが究極のエネルギーであって、他の方法は考える必要すらないと思っていたのだろうか。

それとも原発族議員が子女を東電に入社させ、自分の天下りの受け入れ先を確保しようとやっきになった結果で、いわば東電が越後屋、大臣が悪代官のあの図式だったからなのだろうか。

今回各国から原発用ロボットの提供があったが、悲しい事にそれを扱える人間が東電には居なかったというみっともない結果になったのは、未だ記憶に新しい。
これは現是利益にかまけて、俗に原発奴隷と言う使い捨て労働者に依存して来た旧態依然とした人海戦術であったからだろう。

前述の渡辺教授が応用力学の職を辞して科学しの研究を志したのは、

「日本の科学のあり方への疑問が大きくなってきたんです。戦争に奉仕、人命もろとも戦艦に体当たりする特攻機を生み出すような、日本の科学とは何だったのか。明治以来の科学の受容方に問題があったのではないか、と」

という切っ掛けであり、以前御紹介した通りである。

ロボット産業と言えば、日本が近隣追随諸国にリード出来る唯一の分野と言われていた位日本の得意分野だった筈、完全に将来への布石が欠如していたのが暴露されてしまった。

現是利益ばかりにかまけて、常に先へ先へと布石を打って行く機能が欠如しているのは、ひとえに全能性追及姿勢の欠如から来るのではないか、つまり日本の科学は似て非なるもの、似非科学なのである。

2013年6月12日 (水)

普遍性追求の旅

【復刻版日記2011年5月9日】40の時学校で習った事と実社会の齟齬に疑問を感じ会社を辞め、以来近代文明の淵源を探るべく、イタリアルネサンスの研究及び、祖父である柳田國男の研究を並行して行い、日本の特異体質とポストモダンのエートスについて深く追求して来た、僕が言う「惟神の道はローマに通じるか」の一言で言い表せる様な言わば普遍性追及の旅をしているわけだが、50の時に限界を感じそれまでの人生を半年間家に篭り自伝に纏め、それまで散り散りに乱れた人格を一つに纏める人格統合を試み、その後始めて出会った女性と結婚して今に至るのである。

僕は50迄の人生を理念編、女房と再婚した50からの人生を実践編と呼び、便宜上理念編を前世と呼んでいる。
つまり、僕のスローガンんである「国籍を超え、年齢を超え、性別を超え」の実践である、果たして27歳年下のオーストラリア人と結婚して主夫が出来るかと言う無謀な試みでもあった。

幸いな事に結婚11周年を向え、僕も還暦を過ぎ62になってしまった、マヌ法典で言えば遊行期に差し掛かっている、23歳だったヤンキーならぬオージーの茶髪も遅れ馳せながら32で大学を卒業し35で公認会計士の資格も取り今は36になり、一件落着、僕も肩の荷がおりて現在は安堵のひと時である。

そんな時静寂を破るように東日本大地震それに伴う福島原発事故が起き、普遍性追求姿勢も全能性追及姿勢も欠如する、いわば聖俗未分離の日本では科学すら宗教化して実に危険である事をいみじくも証明してしまった。

僕は今まで個の確立の重要性を説いて来たつもりだったが、個も論も無い日本と自分で言いながら、個の確立など期待すら出来ない事に気がつかなかったのだ。
つまり、輸入の学問では理解出来ない日本と言いながら、輸入の手法でしか説明出来ない自己矛盾を惹き起こしていたのである。
日本は僕が言う、ホーリズム、All or None、全と無の間を行ったり来たりしている聖俗未分離であり、先ずは個=1を導き出さない事には始まらないのである、無からは何も生じず、先ずは1を導き出す事なのである。
それには哲学の基本である自分を相対化して個=1の概念を括り出す事が必要なのであり、これが僕の言う「自分が無ければ始まらない」の所以なのである。
普遍性追求と言うのは、一言で言うと、共通項で括る事である、科学の基本である要素還元主義なのである、これは科学の基本原理である全能性追求姿勢の対極にあるのである。
違いばかり論う事に終始している日本人に普遍性の追求姿勢が生じさせるのは非常に難しい、それには先ず自分で考える事と言う哲学の基本が必要なのである。

「日本は潜在化しているタブーを健在化させ、差別を撤廃し、nationとしての国家から、stateとしての国家に脱却すべきである」なんて口で言うのは簡単であるが、言うは易し生むは難しである。

タブーの健在化、差別撤廃なんていっても一筋縄では行かないし、ましてや、ナチュラリズムとヒューマニズムのハーモニズムにホーリズムから一足飛びに行けるわけでもない。

かと言って普遍性追求の旅をやめるわけにも行かず、汝の隣人を愛せ、つまり足許から固めるしかない、つまり女房との普遍性追求の旅を続けるしかない。

正義について 

【復刻版日記2011年5月7日】昨日配信中に弁護士でフリーメイソンの兄を持つ日本在住のフィリピン人の女性が、「兄さんは負けてばかり」、「お金にならない」とぼやいていた、これこそが黒の物でも白と言わなくちゃならない弁護士の究極の選択なんだと思う。
彼女には「お兄さんが良い人の証拠だよ」と慰めたが、丁度正義について話題になっている時にタイムリーな話だった。

以前2ch上のステスレ(スティッカムのスレッド)で論破って言葉が流行った、その時僕は、論破の定義を、詭弁を弄して相手を煙に巻く事と言っていた、これこそ今暁の豚こと枝野弁護士が盛んに行っている事である。

これを必要悪と言ってしまえばそれまでだが、黒白の決着は常識では解決が出来ない良識の問題なので、正義すら相対化している日本で正常に機能するかどうか疑問である。

特に9/11以来正義の本場アメリカでさえ正義が揺らぎ、僕はこの正義の揺らぎこそがサンデル教授の受ける原因だと推測している位なのである。

日本ではこんな事は日常茶飯事に起きている、東電の隠蔽体質だって例外ではないのだ。

今もニュースは焼肉屋で生肉を提供して死者が出たという話題で持ちきりであるが、もともと生食用の肉等無い上に、肉の内側をそぐと無駄が出るので最後のトリミング処理をしていなかったと言う事実が判明した。
食肉業界はこういった類の事件が多いが、前にもミートホープ事件ってのがあったし、大会社の日本ハム、東急グループですら不正が明るみに出た事もある。

その時僕はこんな事を書いていた。

Aug. 14, '02 2011nen

これが先に書いた、感情が先か、真実が先かの問題なのである。こういう風に書くと、誰だって真実が先に来るに決まってるだろうと思うに違いない。然し乍らこれはどんな犠牲を払ってでも真実が先と言い切れるかの問題である。
これを程度の問題として解決するのか、しないのかの問題なのである。
これは「良識」が絶対なのか相対なのかの問題なのである。
例えば僕の女房が何かをしでかしてしまったとする、普段の日常の失敗等で女房が不当にアキューズされれば、詭弁を使ってでも限り無く庇うだろうが、法を犯す何かをしった場合、真実は曲げる訳には行かず悩みに悩み罪を償う事を勧めると思うからである。
家族を養わなければならないサラリーマンが折角上り詰めた地位にしがみつき、部下が売上を上げる為に止むを得ずしてしまった不正行為を知った時自ら進んでその事実を暴く勇気があるかどうかにも繋がる。ましてや自分が勝ち得た地位を守る為に不正行為という悪事に身を染めるという事だって充分に考えられる。
でも僕には出来ない相談である、大体僕は嘘を付けない人間であり、結局戦争に行っても人殺しは出来ないし、会社ぐるみの詐欺事件でも参加する事が出来ないからである。これを僕が弱いと言ってはそれまでだが、感情が先か真実が先かを考えた場合、僕の場合どんな犠牲を払おうとも真実が先に来るからである。
世渡りが下手、要領が悪い、融通が利かないと言ってしまうのは簡単だが、とてもじゃ無いが最後(良識を曲げる)迄は融通が利かないのである。それは僕が何よりも真実を大事にし、妥協を許さず、曖昧な解決法を望まないと言う事にあるのである。これは僕がクリスチャンであるからだけでは無いと思うが、自分のクリスチャニティーが大きく作用している事も事実である
つまり、慣れ合いの世界、例えば日本ハムの会長と食肉協同組合の理事長が同じ人間で、自分の会社の偽装を隠蔽する為に国の通告を無視し、立場を利用して無断で検査前に勝手に肉を焼却してしまうという様な事等考えられないし、自分がその現場に直面したらその時は会社を辞める時だからである。これは「戦争犯罪」で書いた、「仲間外れになるのが嫌だから殺人をした」という「村八分」を恐れるあまりの、「まあ、まあ」に代表される、「慣れ合い」、「事勿れ」を極力排除する事にある。
つまり、真実を曲げない迄もぼかす「まあまあ」の姿勢、真実を伝えようとする人間に「君も少しは大人になりなさい」と言う姿勢も、問題のある人間を責めず、正論を吐いている人間を世間に波風を立てたという事実だけで吊るし上げる姿勢も、日本独特の事勿れ主義、ひいては世間から仲間外れ、所謂村八分にあいたくないという事から来る弱腰の産物であり、世間におもねり迎合して罪の意識を背負う、或いは罪人になるより、僕は、弱い、要領が悪い、世渡りが下手、如何なる表現で誹謗されようとも、それにより仲間を失う事があっても真実のみを僕の伴侶として選ぶに違いない。

認識の限界

【復刻版日記2011年5月6日】以下は知人に依頼されて書いたDoCoMoの大人モードの原稿の抜粋であるが、いかんせんオーストラリアではIモードが読めないので出たのか出なかったのかも判らない。

「今度映画にもなったバベルじゃないが、お互いの認識をお互いに認識出来ないのが人間の欠点だが、言葉は所詮ツールであり言葉が通じても心が通じる訳でもないし、心が通じ合っていてもこの認識の限界を乗越えるってのは一筋縄では行かない。」

日本人は兎角阿吽の呼吸だとか言って、暗黙の了解を相手に期待してしまうが、僕は女房が西洋人なせいか、違うからこそ理解し合おうと努力するのだと思っている。
たまには息が合う相性が良い相方もいるだろうが、それにぶら下がっていると痛い目に合うと言う事である。

以下は僕がオーストラリアに来たばかりのころ、オーストラリアを二度手間の国、日本を片手間の国と呼んでいた頃書いた物の抜粋である。

「2001年7月の日記より」

「日本の正確無比な事務処理に慣れていると、西洋人が目的重視型でプロセスには余り重点をおかず、常に訂正出来るという融通の良さに憧れる気持がある反面、あのいい加減さが歯痒く、煩わしく感じられジレンマに陥る。つまり交渉次第で良い条件が得られるとか、話せば判るとかいう西洋流の目的重視型思考法では、思わぬ処に落とし穴があって、黙っていても安心という暗黙の了解が殆ど無いのである。つまり、「話せば判る」と言う事は、「話さなければ判らない」と言う事に通じるからである。」

オーストラリアでは個が社会より先に来るので事務が二度手間になり、日本は個が片手間に扱われているので秩序はあるが窮屈である、自由を取るか秩序をとるかの究極の選択を迫られた時自分は自由を選ぶと言う事である。

以下は僕が2002年頃自分のHPに乗せていた、オーストラリア滞在二周年記念コラムの一部の抜粋である。

「僕は昔から白人、特にアメリカを牛耳っているWASP(WHITE, ANGLOSAXON, PURITAN)はヒステリックになるという印象を持っていて、筋が通らない事を平気でゴリ押しして来たりする傾向があると信じている。」
「僕が「話せば判る西洋人」と言うのは「話さなければ判らない」事に通じると言うのも此処にある。日本人は兎角「暗黙の了解」とか「阿吽の呼吸」とかを求めて、話してもみないうちに諦めてしまうが、国際社会ではそんなものは通用しない。矢張り何事も試してみないうちに結論を出すのは止めるべきだと言う事である。」

ここで僕が言いたいのは、日本も一民族一種族なんて建前論で、阿吽の呼吸、暗黙の了解なんか無いのにも拘わらずコミュニケーションを怠り、お互いの誤解を解く努力もせずに看過しないで、nationとしての国家からstateとしての国家に脱却すべきだと言う事である。

エートスなのかパトスなのか?

【復刻版日記2011年5月5日】
♪心が寒い、心が痛い、夢がお互いに違っていたのね、、、♪

何故歌謡曲の歌詞が心に響くのか、何故ならば日本人が情緒的だからである、この特徴はは良い方向に出る時もあれば悪い方向に出る時もある事である。

聖俗未分離とはこう言う事なのである、右脳も左脳も分かれていず、知性と感性も分かれていない。
くそみそ一緒の状態なのである。

これが俗に言う一か八か、All or None、当たるも八卦当たらぬも八卦のホーリズムと言う物である。
つまり日本人のエートスは情緒なのである。
それともエートスは甘え、事勿れ、付和雷同、美意識先行、負け惜しみ、内弁慶、グループアイデンティティー、パトスが情緒なのか?

20年前僕は、ダンテの神曲の一節みたいに、「僕は人生の半ば過ぎ暗い森の中にいた」なんて言っていた。
当時スウォッチにダンテの横顔にその一節が書かれているのがあって愛用していたのを思い出す。

当時青山のパーティーで酔っ払ってその下にあったペットショップで衝動的に買ってしまったコッカースパニエルにも勿論ダンテと名前をつけたし、彼女を買ってビーチェ(ベアトリーチェ)って名前付けようなんて言っていた位である。

"The biggest mistake I've ever made in the last fifty years in my life is to misunderstand Japanese people more logically organized, that there's the difference between what I think is modern civilization and what the majority of Japanese people think."

10年前にはこんな事を書いていた、これが冒頭の歌謡曲を思い出させるのである。

僕の試みは元々ポストモダンのエートスを求めてと言うものだった、その後モダンが無ければポストモダンも無いと気がついた時に、これを書いたのだと思う、確か大江健三郎さんが仰っていた言葉じゃないかと思う。

結局日本にはモダンなんて無かったのであり、従ってポストモダンなんてのも無いのである。

近代日本、科学的な日本人って言葉が自己矛盾なんて悲しい限りである。

エートス 2011

①人間の持続的な性格の面を意味する語。
②ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な慣習・雰囲気。エトス<->パトス

パトス

事件や他人により人は受難としての情熱・激情を内部に持つ。
それはエートスのように恒常的でない代わりに、一瞬の内に何かを生み出す契機となる。<->エートス

サンデル教授のフィーバーについて考える。

【復刻版日記2011年5月4日】
たまたま最近オサマビンラディンがワールドトレードセンターテロから10年経った時に殺害されたニュースが入って来た。
2001年のこの事件の後僕は、自由がいらないと言っている人間に自由を押し付ける、所謂自由の押し売りについて書いた事を思い出す。

ポストモダン4
ポストモダン5
ポストモダン6

つまりブッシュが当時、"smok'em out and bring'em out to justice"みたいな演説をして、イラクに侵攻したのである。
この時思ったのが、人間が神になってしまうと、正義も気違いに刃物だと言う事で、麻原彰晃と何ら変わりはないと言う事なのである。

僕がその時書いたものの抜粋だが、

「一人一人の良識の範囲では、「暴力による解決は避けるべきである」というのは明白だと思う。しかし、あのニューヨークでの大量の犠牲者を前に「報復行為は罪です、ただ祈りましょう」と明言する自信のある人が居ない。」
「我々の持ち合わせている通常の倫理規範では、首謀者オサマ・ビンラディン及びその組織アルカイダ、叉それを庇うタリバン報復を悪であると導けるだけの論拠が乏しい。」
「下手に良識を振りかざすと偽善者っぽくなってしまうし、かと言って国粋主義も現代的ではないし、恰も「彼方は自己犠牲を払ってこの問題解決に尽力出来ますか」と問われているみたいなものであり、ヒポクリットかパトリオットかと選択を迫られた時に、今迄みたいに優等生をやっていられない程追い詰められてしまった様なものである。」

ベトナム戦争の時、社会復帰出来ない復員兵の為にビジョン心理学が開発されたように、今日本で爆発的人気のハーバード大学サンデル教授の正義論、或いは究極の選択もこんなところに切っ掛けがあるのではないだろうか。

もともと政治哲学には興味がないので、「リベラリズムと正義の限界」ってのは時間があったら読んでみたいが、あまり足しにはならんだろうと思う。
大体、哲学とは自分で考える事であると言いつつも、教授はカントがどういった、アリストテレスがどうのと哲学史を披瀝するだけに終始している。

これも以前オランダ人のジャーナリストウォルフレンが流行った時と同じに一過性のものじゃないかと危惧する、

その時僕は柳田國男を継承する会と言うHPに「国学」と「蘭学」と言うタイトルで文を載せた事がある。

「国学」と「蘭学」

「折角祖父が「新国学」としての「民俗学」を提唱したにも拘わらず、ただの「郷土研究」程度にしか理解出来ない日本の知識人に失望を感じさせらてしまっていたからである。」

「再び我々は「蘭学」をする事になりそうな気がする。」

と僕は書いたのだが、

興味深いのは彼がある著作の中で、

「私は幸い、この国で、多くの友人、真の友と呼べる友人に恵まれてきた。そして、彼らと無数の忌憚のない意見を交わしてきた。日本のほかの知人たちとも同様だ。しかし、会話が終わると、日本の友人も知人も、気苦労の多すぎる彼らの社会へとまた戻っていかねばならなかったが、私はその外にとどまっていられたのだ。」

と吐露したのである。

所詮彼も外来なのであり、日本人にとっては異邦人(一寸振り向いて見ただけの異邦人♪)なのである。

それが証拠に彼はこれを踏み台にしてアムステルダム大学の教授の職を得たのである。

ここで僕が言いたかったのは、聖俗未分離の日本では、科学が宗教化したのと同じに、哲学も宗教化すると言う事である。
僕が正義すら相対化する日本と言うように、個も論も無いつまり自分が無い日本では、世間こそが正義なのであり、それこそが僕が世間主義人民共和国と揶揄する根拠なのである。

願わくばサンデル教授のフィーバーが一過性のものでなく、日本人の心に自分で考える事こそ哲学であると気付かせ、根付かせて欲しいものである。

自分が無ければ始まらない

【復刻】日本では本来歓迎されてしかるべき、自分を持っている人間をどういうわけか煙たがる傾向がある。
自分こそが哲学への入り口だと言う時に、自分を持っている人間を潰してしまったら、哲学など生まれようもない、哲学が生まれなければ、科学だって生まれるわけもないのである。

柳田國男が下記のように述べている、

「日本人の大多数は、まるで魚か渡り鳥の群れのように、みんなのする通りに行動するのが、最も安全なる活き方だと、信じているかと思うような、個性の没却が常の習いになっている。これには我々のまだ知らない深い原因があり、これによってこの奇抜な風土に適応し、種の保存には成功し、しばしば繁栄の機会をつかみ得たのかもしれないが、その代りには背後に血と涙と汗と、少なく流れるを喜ぶべき液体が多量に流れる。デマゴーグの最も効を奏しやすい国であり、普通選挙の根っから張り合いのない国でもあったのである。」

この「個性の没却が常の習いになっている。」没個性、どこを切っても金太郎飴式の教育こそが元凶なのである。
冬季オリンピックのスノーボーダー国母選手が制服をゆるゆるにして着て顰蹙を買い、蓮舫が作業服の襟を立てて個性を出そうとする、本来没個性であるべき制服(ユニフォーム=一つの形)で個性を主張しようとする、本末転倒が生じてしまうのもこんなところから来てるのかも知れない。

自分を幾ら持っていても阿呆じゃしょうがないかも知れないが、阿呆、阿呆といわれている内に自己の内面に深く入り込み、悟りを開くと言うのが哲学の究極の目的とすればまんざらでもない。

僕は日本人は自己遠心的(蚊帳の外)であり、当事者意識、参画意識が希薄であり、自己中心の方が未だ良いと言って来た、自己中心も四面楚歌になれば自己求心になるからである。

自己遠心も自己求心も僕の造語の為、ググっても出てないかも知れません。

僕が輸入の学問では日本人の心は解けないと言い続けるように、翻訳文化の弊害で、僕が近代文明学総論とか個人学、自分学みたいに造語しないと説明出来ない現象が日本には多々有るのである。

哲学の基本は自分を客観視して個人をくくり出す事にある。
相対化と言うともっと専門的に格好よく聞こえる、が哲学者の大部分は哲学史を披瀝し、デカルトがどうの、カントがどうの、ショーペンハウエルがどうの、所謂デカンショ節、プラトンがどうの、ヘーゲルがどうのスピノザがどうのとこけおどしに過ぎない。
昔の偉人が何を言おうとと自分が納得しなければどうにもならない、要は自分がどう考えるかなのである。

僕が自伝の序で書いた通り、

「私が会社を辞めてから、一時家に籠って悩んでいた事があった。色々な本を読んでも難し過ぎるし、考え疲れて、どうした物かと思案に暮れている時、ふと哲学とはこうして自分で考える事にあるのではないかと思い付いたのだ。 暫くした或日、本屋を歩いていた時、澤瀉敬久先生の『「自分で考える」ということ』という本を見付けて驚喜してしまった。この本はわたしにとって一生離せないと思う程度になる本で、いまでも一冊だけ良い本の名を挙げろと言われたら、文句無しにこの、『「自分で考える」ということ』を挙げると思うくらいである。」

大事なのは自分で考える事なのである。

この本の中で澤瀉敬久先生は、「自分で考えるの反対は、皆で考えるではなく、自分で考えない事だ」と言うような内容の事をお書きになっていたと思う。
僕は余りにも感動したので二度も感謝の葉書を出してしまった覚えがある、それに対して先生はご丁寧に二度ともお返事を下さったのである、さすが大学者は違う。

柳田國男も「私の哲学」の中でこう述べている、

哲学に望む

「日本の哲学についていいたいことは、どうも表現の技術が進まないということです。私はいわゆるプロフェッショナルな哲学が全滅すべきだとは考えていないが、日本の言葉を自由にし、クリアにする哲学が出来れば美のためにも必要だと思います。そのためには単純な言葉でなければなりません。今日のようなむずかしい言葉で書く哲学は、私共が一番簡単な方法としては逃げることです。(中略)今日まで、哲学をむずかしくしたのは訳語の選定がわるかったことと、人によって訳語が違うことです。それをちっとも断っていないから混乱を免れない。それが哲学を不人望にしたのだと思っております。しかし、それだからといって彼らをまるっきり押出さなければならぬと考えてはおりません。これから先、解り易い百万人の哲学というのが生まれれば私も或は読むかも知れません。」

今祖父が生きていれば僕と同じ事を言うに違いないと確信している。(これは2011年5月2日の日記の復刻である。)

美化と自虐の二分法

【復刻】今回の東日本大震災とそれに伴う原発事故を見て、日本人の特異体質が顕著に現れた事は何回も述べたが、今までは美化と自虐の二分法だったのが、その中間に科学教信者が居て、原発推進を叫んでいるのが今回の特徴である。

僕は以前からAll or none、一か八か、当たるも八卦当たらぬも八卦の聖俗未分離と事ある毎に語って来たが、今回の原発事故により、かねてより疑問に思っていた日本人の科学に対する態度である。
これが果たして自虐=左、美化=右の二分法で解けるか、その中間にはわれ関せず炎の日和見、ノンポリが居る事は言わずもがなであるが、今回確信したのが、軍国少年が様変わりした科学少年なのである。

侵略戦争をひたすら謝り続け、靖国神社参拝に反対するのを自虐と呼び、南京大虐殺そのものの存在を否定し、A級戦犯を合祀する靖国神社を礼賛する人間を美化と呼ぶ、何のことは無い、双方とも情緒的なのである、これは史実に基づいているわけでもない、言わば記憶と記録の違いなのである。
記録と記憶ってのは作家の五木寛之さんがどこかで言った言葉だと思うが、結局、中国人或いは韓国人の半日感情もこの記憶がある内は幾ら記録を書き換えても収まらないと言う事と同じなのである。

僕が以前憲法記念日に想うという題で書いた抜粋だが、

「『改憲反対が強いのは六、七十代。この世代はトラウマ、つまり心に戦争の傷がある。しかし、三、四十代は日教組教育が弱くなって純真、天衣無縫。改憲賛成が多くなる』と中曽根氏の発言を取上げ、「つまり憲法は政党の問題ではなく世代の問題なのかもしれぬ。」と言い、『先の戦争の被害者がみんな生きているよ。だから、まだ早すぎるんだ。その世代がこの世からいなくなって論議して、憲法を変えていく必要があるならそれは結構だ』と後藤田正晴氏の言葉で結ぶ朝日新聞の記事を見て、憲法問題を世代の問題で考える姿勢に何か恐ろしいものを感じるのは私だけだろうか。」

こんな感じだな。

じゃあ果たしてその中間に位置する科学少年が科学的かと言うとそうでもない、彼らにとって科学こそ宗教なのである。
これが如何にも尤もらしくてつい騙されていたのだが、今回の原発騒ぎで馬脚を現してしまったのだ。
つまり聖俗未分離状態に科学の発生する土壌が無いとは良くいったもので、聖俗一致、心身一如状態では科学は無理なのである。
僕は常々日本は近代文明学各論は優等生だが、総論は落第生だと言って来た、これは和魂洋才にも表されるように、総論は輸入しなかったからである。
今回の原発事故が象徴的だと言うのは、この総論の欠如がもろに露呈したからなのだ。

何回も言って恐縮ではあるが、「これは絶対に漏れない原子炉です」、と言った舌の根も乾かぬ内に、放射能が漏れた途端に、「この先は神のみぞ知る」では到底科学的とは言えないのである。
つまり矛盾と言う熟語の語源がどの矛でも貫けない盾と、どの盾をも貫く矛に在る通り、盾の部分を格納容器に矛の部分を地震或いは津波に置き換えて見れば判り易い。

ここで言いたい事は日本は出来るだけ早くこの聖俗未分離の状態から脱しなくてはならないのだ、それには政治家が何をやっても駄目で、原始的シャーマニズムの親分の天皇が動かなかったら日本は変われないのである。
ご存知のように日本の教育は、どこを切っても金太郎飴の教育であり、誰がやっても政治が同じになるのは至って当然の事だからである。
それでは何を天皇がすれば国民が追随するだろうか、美智子妃が聖心女子大でのカトリックだから天

皇がクリスチャンになれば良いと言うのは余りにも短絡的過ぎる、だが、戦後マッカーサーがマニラでフリーメイソンになったように、あの時、昭和天皇がフリーメイソンになっていたら、憲法の前文にある「人類の普遍的原理」と言うものが生きて来ていた筈なのであり、今からでも決して遅くはないのである、なぜなら日本人にとって最も不得意なものがこの「人類の普遍的原理」だからである。(これは2011年4月26日の日記の復刻である。)

科学は宗教ではない、

【復刻】僕にとって今回の原発事故は再度の敗戦に等しい。
今回の一件にしろ、第二次世界大戦当時の集団ヒステリアと大差ないのではないのか、以前から考えていたのだが、科学そのものが一種の宗教のようなものだと言う事で、科学を過信してる学者が如何に多いかということである。

今回の原発事故で再度考える機会を与えられたが、今はっきりしたことは、戦後天皇の人間宣言と共に拠り所を失った日本人にとって科学そのものが宗教化していたのじゃないかという事である。
フリーメーソンの起草による日本国憲法の前文に「人類の普遍的原理」とあるが、日本にはこの普遍性追究姿勢が欠如している、つまり、日本には「国是」が無いに等しいのである。
そこで登場したのがアメリカ産のプラグマティズムであり、第二次大戦で優秀な人材を失い残っ二番手の学者共(我が父親を含む)がこぞってこのプラグマティズム所謂「科学教」に入信したみたいなものである。
これを聖俗未分離、当たるも八卦、当たらぬも八卦、一か八かのホーリズムと呼ばないでなんと呼べばよいのだろうか。
こうしてみると、科学一辺倒の時代に育った僕が、受けた教育と社会との齟齬に如何に振り回されたのか納得が行く。
実は今回の東日本大震災の引き起こした原発騒ぎでこれ以上の追究がもう無駄なのではないのかと思い始めた。
前述の渡辺東大名誉教授の『科学史事始』以来日本の特異体質の更なる追究は止めたものの、国際個人学研究所なんてのをネットに立ち上げ、スティッカムで配信まで始めて、自分の考えを発信し続けたが、馬耳東風、特に2chなんてのは日本の世間の典型であり、匿名でたたかれ続けるのが落ちである。
先ずは個の確立をして、内なる神を見出す事なんて悠長な事を言っている場合じゃない、近代文明が一神論の背景がなければ機能しない事を忘れるところだった。
少なくとも科学というものは真実が真っ先に来なくては行けない、真実なんて二の次で先ずは美意識からなんてお格好つけてる日本人には所詮無理なのだ。
2chとかけてなんと解く、放射能と解く、その心は、見えない敵、、なんて冗談言っている場合ではない。
以前バブル全盛の頃、「パールハーバーで失敗したので、今回はハワイを買おうとしている日本人」なんて冗談を飛ばし、ハワイのイミグレーションで「今回の渡布目的は」なんて訊かると、「ハワイを買いに来た」なんて言ってオフィサーと大笑いした記憶が懐かしい、まさにリメンバーパールハーバーである。 (これは2011年4月11日の日記の復刻である。)

今日本人に求められる意識改革

【復刻】今回の東日本大震災による原発事故程僕の人生にインパクトを与えた出来事はない、日本の特異体質を如実に捉えた実に象徴的な出来事だった。

社会に出て以来、学校で習った事が社会で通用しないと知り、日本は真善美が衣食住に反映されていないと言う疑問を抱き、以来追究し続けて来た、それが和魂洋才に表される輸入の学問いわゆる翻訳文化から来る弊害だとの結論に至った迄は良かったのだが、その先にそれをいみじくも証明するこんな象徴的な出来事が待っている事など想像だにつかなかった。
正直言って僕は原子力がこれ程恐ろしいものだとの認識がなかったのである、毎回原発事故がある度にその隠蔽体質には疑問を持っていたのも確かだが、まさかそこまで同朋が無茶をする等夢にも思わなかったのである。

つまり僕は半生をこの和魂と洋才の齟齬に翻弄されてしまったとも言えるのである、いや日本人全員が翻弄されつつある現在進行形なのかも知れない。

僕は「日本人は輸入した真善美を美善真と勝手に並べ替えて真を一番最後に持って来てしまった」といつも表現するのだが、日本人は美意識先行型で真実が最後に来ると思うと妙に納得が行くのである、つまり真実等二の次で体面、保身の方が大事な隠蔽体質なのである。

日本は国家形成が早く統一規範としての宗教が必要なかったと宗教学者さんは表現するらしいが、所謂宗教改革或いはルネサンスと言うものがなくてここまで至ってしまったので、二元論を唱える人間も不在な為に西洋の聖俗分離と言った科学の発生する土壌が出来なかった。

この前近代的な聖俗未分離状態が一か八かの当たるも八卦当たらぬも八卦と言う危険性を孕んだまま明治維新に近代文明を受け入れてしまったのである。

つまり日本人の原動力(エートス)は正義でもなく、使命感でもない、情緒なのである、善人面した内弁慶の負け惜しみと思って間違いが無いと言っても過言ではない(やっぱ言いすぎかw)。

これが僕が日本人は近代文明学各論は得意だが総論は落第生であると言う所以でもある。

昔から日本は海外の文化を器用に取り入れてここまで発達して来たと言われる、これは揺るぎも無い事実であるが、僕はこれを日本人の都合の良いとこ取りと呼んでいる、良いとこ取りは歓迎されてしかるべきであるが、都合が良ければ悪いところでも取り入れると言うのは頂けない。

ご存知のように第二次世界大戦までは国家神道により天皇を神格化して現人神を創り上げなんとか秩序を保ったが第二次世界大戦という大きな間違いを起こし、敗北の末、天皇も人間宣言をし、フリーメイソンの草案に拠る現在の日本国憲法の下に再出発を余儀なくされたのである。

僕が日本は世間主義人民共和国だと揶揄する通り、日本の自由主義、個人主義は似非であり、それを学者さんは共和主義的個人主義だとか経済的個人主義だとか負け惜しみで呼ぶが、大体個人の自由と言うものは神とのお約束事であって政府とのお約束事ではない、私権の行使と個人の自由を同次元で考えている限り個人の自由を理解することは出来ない。

今回の事故は、この科学の発生する土壌が無かった事に相俟ってそれに更に上乗せして災いしたのが日本人の美意識先行型の国民性なのである。

日本では西洋から学んだ社会は建前であり、本音は昔の世間そのものなのである、一神論の背景の無い日本では正義すら相対的であり、世間そのものが正義なのである、つまり国民は世間の顔色を伺いながら自分の意見は述べないのが日本なのである。
つまり絶対的な規律がある軍隊ならまだしも、正義すら相対化するなかでサラリーマンが原発を運営するのには無理があるのだ、結局長いものには巻かれろなのである。

訊く所に拠るとそう言った中にも内部告発する正義感の強い人間も皆無ではなかったらしいのだが、保安院にちくると即そのまま上司に伝わってしまうので皆びくびくしていたと言う。

今回の大惨事はお隣の中国、北朝鮮ならさしずめ責任者は粛清されている、日本は下手に似非の自由があったものだからもっと始末が悪い、結局与えられた自由は有り難味が薄く身につかない、なぜなら自由は勝ち取るものだからであろう。
教育勅語があった時代の方が平和で秩序が保たれていたなんて、なんと皮肉な事なのか。

今ここで日本人が目覚めなければ日本が世界に取り残される事は必須である、今日本人に必要なのは意識改革であり、原発ではない。

最後にお詫び致しますが、狂四郎今回の大惨事でかなり心を痛めておりますので、推敲もままならず、論理の飛躍、過激な表現等垣間見られるかも知れませんが平にご容赦頂く様にお願い申し上げます、これもひとえに国を愛する気持ちから生じたものとご斟酌下さい。
(これは2011年4月6日の日記の復刻である。)

2013年6月11日 (火)

日本は観念的に或いは理念的に破綻しているのではないのか、

【復刻】今まで毎日のように日本の特異体質について考え、如何にしたらそれをあまねく人に伝えられるかなんて手をこまねいていて、半ば諦め状態でもう笑って誤魔化すっきゃないって「笑いが地球を救う」なんて標語を作っていた矢先に今回の東日本大地震が起きてしまった。 Tabletalk3_2

聞くところに拠れば想定外だったと言うのは嘘で明治にもっと大きな津波の被害を受けていたらしい。

日本は既に観念的に行き詰っているのだと思う、つまり和魂洋才の弊害、いわゆるCPUとOSの相性が悪いので、近代文明への対応が今ひとつしっくり行かないのだ。

今回の津波で引き起こされた原発の事故は人災とも言える位に全ての点において対応の甘さが見える、これは基本的な姿勢に問題があるとしか言いようが無い。

特に放射能は目に見えない敵と表現されるように不可視のものであり、即物的な日本人が取り扱うのに無理があるのではないのか、ここに象徴されるのである。
これが池田元久経済産業副大臣の「神のみぞ知る」発言に繋がるのではないのか、聖俗未分離状態の日本の一か八か、all or noneの思考回路で原発を扱うのは危険すぎる程、原発は神の分野なのである。
原子力は人類の叡智であるかも知れないが、日本人の叡智で無い事だけは確かである。

あれだけ、広島に続く、長崎の原爆投下で、嫌と言うほど原子力の恐ろしさは知っている筈の日本人がどうしてここまで考えが甘いのかが理解出来ない。

各国から協力の申し出があってもむげに断ったり、IAEAが避難基準を下回ったと避難勧告を無視し、日本の基準値はもっと精巧だとか言い訳ばかりで逃げるばかり、国民軽視の政策がいまだに取られている。
大体IAEAの事務局長はエルバラダイ氏の公認は日本人の天野氏ではないか、同朋の勧告すら無視する傲慢さは一体どこから出てくるのか。

ひどいところでは、各国から原発対応のロボットの提供があったにもかかわらず、それを扱える人間すらいないと言う、つまりいわゆる原発奴隷を使い捨てした方が費用がかからないと言う、言わば第二次世界大戦における人間魚雷の発想なのである。

そんな事を考えている時に僕が日本の特異体質の追究を止めるきっかけになった、東大名誉教授の渡辺正雄先生の事を書いた、黄ばんだ朝日新聞のテーブルトークと言うコラムの切り抜きを、旧いシステムオーガナイザー(バインデックス)の中に発見した。
するとその中にこんなような記載があるではないか、

「日米開戦の1941年に東大工学部を繰り上げ卒業。海軍の記述か士官を経て、敗戦時には東大第二工学部で応用力学を教える助教授だった。が、47年、その職を辞し、科学史の研究を志す。『日本の科学のあり方への疑問が大きくなってきたんです。戦争に奉仕し、人命もろとも戦艦に体当たりす

る特攻機を生み出すような、日本の科学とは何だったのか。明治以来、西洋からの科学の受容の仕方に問題があったのではないか、と』」

今回の他国がこぞって原発用ロボットを開発している時に、東電は非人道的な原発奴隷の使い捨てをやっていたのだ、日本にとってロボット産業はいわゆる精密機械の分野で生き残りを図る為の重要な産業だと言うにも拘わらずだ。

コラムは更に続き、最後には、

「それは、最近の茨城県東海村の臨界事故などにも通じるという。『総合的観点の欠如により、本来人間のための道具であり、人類共通の福利を増進させるはずの科学技術が、人間より優先される本末転倒が今も続いているんです』」と続いている。 (これは2011年4月02日の日記を復刻したものである。)
最後の本

日本人の都合の良いとこ取り

【復刻】よく言われる事で、日本人は器用に海外の文化を身につけてここまで急速に発展を遂げた、その陰にかなりの犠牲を払っている事も確かである。

良いとこ取りってのはいいけど、都合の良いとこ取りってのは下手したら都合が良けりゃ悪いとこまで取り入れてしまうと言う事で芳しくない。

例えば、全体主義(ホーリズム)にアメリカの合理主義(プラグマティズム)を取り入れた為人間がロボット化して発展を遂げたのは良いのだが、人間がマニュアルに書いてない事が出来なくなってしまったとか、これは僕はひとえに僕の親父の時代の学者が合理化してはいけない教育に真っ先にプラグマティズム(〇×式)を取り入れた為と認識している。

一度親父に最近の若者がものを考えなくなったのは○×式の為じゃないかと言った事があったが、「何を言うかあれは自分たちが考案した画期的なものだ」と言われてがっかりした時もあった。

僕はこれを日本人の都合の良いとこ取りって呼んでるけど、ファーイーストでもない、かと言ってファーウェストでもない、ある時はアジア、ある時は西欧諸国と一緒みたいな恰もイソップの蝙蝠のように見える、どっちつかずってのは幾らなんでもまずい。

僕はひとえに日本は東洋のナチュラリズムでもないし、西洋のヒューマニズムでもない、ちょっと変わった独自のホーリズム、言わば、全体主義みたいなところがあって、All or None つまり全と無の間を行ったり来たりしていると思っている、

昨今の自殺率の上昇、出生率の低下なんて見ても、西洋みたいにAll and One という考えを導き出していれば、これほど迄に個人が追い詰められる事も無いのではないかと思う位である。

親が子供に小言を言う時も、ある時は目上の者を敬えって、儒教的だったり、ある時は和をもって尊しとなせって聖徳太子だったり、ある時は何時の隣人を愛せよってキリスト教、行き詰ると、「社会ってこんなもんだよ」、「人生ってこんなもんだよ」って無常論を唱え突然仏教になっちまって、これじゃ子供がまともに育つわけもない。

日本国憲法の前文に「人類の普遍的原理」ってのがあるが、それが都合がわるいのだったら、「あかき、なおき、あおき、ただしき」に変えるなりしてらどうなんだ、国是が無いってのは致命的なんじゃないか、それとも人類の普遍的原理ってのを理解するかどっちかでしょ、

僕はあの小泉純一郎元総理がしたりがおで鼻の穴を膨らませて「俺の考えは人類の普遍的原理に基づいている」とうそぶいた時はさすがに腹が立った、一国の総理とあろう人間が国是を揶揄するってのはどうかと思う。

大体政治家も皆受け狙い、美意識先行型で、『美しい国』 なんて本まで書いた首相もいた、学問を輸入したとき、真善美ってのを勝手に美善真と並べ替えた上、真が三角形の頂点に来るべきものを、一直線に並べてしまったから、日本では真善美が衣食住に反映しなくなってしまったと僕は理解している、日本では真は最後に来ると考えると、納得の行く事も多いのが皮肉だ。

柳田國男も確か、「真はインターナショナルじゃなければいけないが、善と美はナショナルだ」とかかなりこじつけくさい事を書いていたように記憶している。 (これは2010年12月12日の日記を復刻したものである。)

輸入の学問、翻訳文化どっぷりの日本人 

【復刻】余り翻訳文化を批判すると僕を目覚めさせて下さった翻訳者の木村氏に悪いので、躊躇するがこれは個人批判ではないので悪しからずご了承下さい。

そもそも西洋人が「俺は無神論者だ」なんて言っても社会的背景そのもが一神論をに基づいて機能してそれを利用しているんだからあてにならない、この日本人のホーリズム状態とは比べようもないのである。
大体デカルトだって神を一旦外に置いておいて、『方法論序説』を書いたのだろうし。

何故日本人がこの輸入の学問、翻訳文化の無限ループから出られないのか、自分で考えるって事はしないのか、考えてみても損は無いと思う。

これこそ福沢諭吉がinformationを情報と訳し、intelligenceを知識と訳した事による弊害なのではないのか、、情報を咀嚼し自分のものとした時初めて情報は知識になる、だれがこう言った、かにがこう言ったなんて言ってないで自分はこう思うって言って欲しいのだ。
それも皆翻訳だから何が言いたいのか皆目判らない、もっと咀嚼して自分の言葉で表現出来るようになるまで練れないものなのか。
柳田國男のスタンスは、「僕はこう思うけど、あなたはどう思いますか」ってどこかに書いてあったと思う。

下は僕の50迄の人生の記録である「自伝」の序の抜粋だが、

『以前フランスで哲学を勉強していたという友人に、「人生ってものは、日常の単純な営みに喜びを見い出せなければ負けだよね」と言った処、その友人が、「それはかつてスピノザが言いました」と尤もらしく、もうそれは古いと言わんばかりに答えた事がある。
秀才は兎角知識だけは豊富であるが、筆者はそれを敢えて知識と呼ばずに情報と呼ぶ事にしている。
あくまでも自分で簡潔に括り出すというのが基本だと信じるからである。
その時、以前筆者が離婚したかどで家を追い出されて所沢に独りで暮していた時、父親に、「俺は閃きというものは、平坦路では出ないもので、がたがた道を歩いている時に出ると思っている」と言った処、父が、「それはかつてキルケゴールが言った」、「エジソンも同じ事を言ってた思う」と答えた事を思い出した。
人が無い頭を振り絞って悩んだ末にやっとの思いで括り出した答を、いとも簡単にそれは誰々が既に言いましたいってのけられるのは大したものだと思う。
そういう人間に限って、頭の中の情報を咀嚼して知識に迄高める事が出来ないのである。
以来筆者は、カントがどうのヘーゲルがどうのと言う類いには耳を傾けない様にしているのである。』

何故自分はこう思うって言えないのか、主観のどこが悪いのだ、客観だって一度口から出れば主観でしょうに、だからこそ、主観を限りなく客観に近づける努力、自分を相対化するって事が重要なんじゃないのだろうか。

ここでさえ日本人がかくも自分を見つめる事に慣れてないかいみじくも括りだした感がある。 (これは2010年12月02日の日記を復刻したものである。)

考えさせられる、、個と論が欠如する日本で、如何にして聖俗未分離から脱却するか、個論:::

【復刻】またまた振り出しに戻ってしまった、

日本は国家形成が早かった為にいわゆる統一規範としての宗教が必要なかった、、、とはさる宗教学者先生の言葉だったと思うが、だからと言って、聖俗未分離、ホーリズム状態のままで良いって訳でもないだろう、駒大の佐々木宏幹先生が、「トランス状態になる必要はないが、皆がシャーマンになる位じゃないければいけない」みたいな事をお書きになっているのを見つけた時、禿同だったのを思い出す、、

日本人は違いを論うのは得意であるが、共通点で括るって事がやけに苦手みたいである、
共通項で括るってのは因数分解の基本、科学の基本の要素還元主義であり、これが無いと拡散する一方で一向に収斂するという事が無い、まとまるものもまとまらないのである。

これは何故なのか、右脳と左脳が西洋人と違うなんて言った先生もいたが、右脳と左脳が分離していないコアラ状態なのか、
まぁ、日本人は神様と競争するとか、神様の寝室を覗くとかえぐさが無いから、もともと科学の発生する土壌はないのだが、それにしても僕が造語した近代文明学総論は落第であるな、、でも各論は得意だから、面白い、皆そろって日本にも科学はある、こぞってノーベル賞を受賞してるだろうっておっしゃる、でも皆各論でしょ、それに大部分アメリカシチズンじゃないですか?

重要なのは総論であり、科学こそ専門馬鹿を作り出す元凶でもあるのだ、、

だからかのウォルフレンに日本人は論理と理論の違いすら判っていないと言われてしまう、これも翻訳文化の弊害だ、、

平成八年に年頭に当たって、これからは一切女々しい男とは付き合わないと宣言して久しいが、日本人の男性には内弁慶、言い訳ばっか言ってる人間が多い、、実に情緒的なのである、、
ちょっと意見が合わなかったりすると、「君には失望した」とか言い出す、
ハワイに居た時、"I dont like mr,kyoshiro but what hes saying is right"といった坊やがいたけど、日本人だったらちょっと意見が合わないだけでさしずめ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い状態になるだろう。

「人生なんかこんなもんだよ」とか「社会なんてこんなもんだよ」とかすぐ無常論を唱える、社会は変えられるものだという意識が希薄だ、嫌だったら変えれば良い、僕は柳田國男が同じような事を書いていたのを見て嬉しかった記憶がある。

つまり日本人には個と論の概念が欠如しているのである、始めに言葉ありきじゃないのである、個も無ければ論もない、この状態でどうして個の確立が図れるのか、

個と論こそ、このホーリズム状態から脱却する鍵であると信じてやまない狂四郎である、、僕が言うところの個論:である。(これは2010年11月30日の日記を復刻したものである。)

国際個人学研究所再考 

【復刻】先日柳田國男評伝をお書きになっている木村氏のブログを拝読して、忘れかけていた、僕の柳田國男研究ならびに柳田國男曰く「第二部=開港後の日本」としての国際個人学研究所を再考するに至った。

日本人が自由主義、個人主義を標榜し、近代文明を享受し続ける限り学ばなくてはいけない何か、柳田國男も言い続けた輸入の学問では解けない日本人の心、それが柳田國男曰く「第二部」を解く鍵になるのである。

日本の個人主義、自由主義は欧米社会のそれとは違う、欧米の個人主義、自由主義は日本では通用しないなんて言っている場合じゃない、日本が世界で通用するか否かの大問題なのである。

日本は開港以来、輸入の学問一辺倒であり、翻訳文化どっぷりで、それらの弊害がそこかしこに見られる。

日本人の特徴として教科書がないとにっちもさっちも行かない、つまり自分で考えるという習慣が欠如している。
つまり、柳田國男をいくら読んでも解決策は書いてないということであり、その続きは自分で考えるしかないということなのである。

僕が「個人学」、「自分学」と言うものを造語して提唱したのもそこにある、輸入の学問には日本人向けに「自分をみつめる方法」、「絶対主と一対一で対峙する方法」なんて教科書はない。

僕が言いたかったのは個人という言葉はindividual=indivisible=分けられない、つまり分業が出来ないという意味で、分業が出来ない事は自分でやるしかないと言う事なのである。
日本人はtake care of yourselfというのを気をつけてねと訳すが、これは、自分の面倒を見なさいという意味である。
つまり、西洋人は常に分業が出来ない、自分の面倒は自分で見なさいといい続けているから強いのである。

日本が大きく変わったのは、柳田國男の没後、東京オリンピック以降であり、柳田國男のジュネーブ以降なんて言っている場合じゃないという事なのである。 (これは2010年11月24日の日記を復刻したものである。)

ネットストーカー

配信をする度にネットストーカーに絡まれて難儀していたが、今度やっとほぼ確定的な個人を特定したので、その時薄気味悪くなって消したアカウント及びコンテンツを出来る限り正確に時間を掛けて復活させたい。

ネットストーカー追放にご協力下さい。

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