2017年7月15日 (土)

日本人は個の確立が出来ないから神が居ないのだ。

俺がよく自分は25年間もの間地べたをのたうち回り人生をこねくり回して得た結論がオーストラリアに帰化する事だったと言うが、常に控えめに書いているが、25年と一言で言っても只の時間の経過じゃなくて一度に沢山の本を読んで情報を闇雲にインプットしそれがこなれて出て来る迄に時間が掛かる訳で、それこそニューラルプルーリングじゃないが縦横のインデックスが繋がって初めて理解するに至る訳でそれなりの時間を要する。

教科書が無い状態で一つの目的に向かって進むのは容易な事では無い。
まさにユーレカって感じで体感する、並行して進めて来た事が一寸した切っ掛けで繋がったりする。
例えば仕事上編み出した、「国籍を超え、年齢を超え、性別を超える」のスローガンが何の事はないそれ迄追求していた普遍主義の実践だという事に気が付いたり。
最近では『ワンネス』を書いてから25年目にして結局本音と建前が主観と客観そのもので限りなく一致させるべきもので、それらが離れたまま看過するべきではない事に今更ながらに確信したりした。

例えばニコラスクザーヌスの所謂「個は全を包含する」という言葉にしろ、「一にして全なる個」という言葉を体感するのに20年以上の月日を要したりする。
大体、哲学的にリベラルであり政治的にもリベラルになれた事すらオーストラリアに帰化してから実感したものである。
内なる神を探る作業は単なる知識の集積ではない。
神体験ってのは本を読んだだけで簡単に出来るものではない。

個の確立が近代文明ひいては日本人の文明化の要である事を日本人が理解さえ出来たら状況はかなり楽になると思う。
これを平易に解説出来たらどんなに良いものかとつくづく思う、それを日本人は神が居ないから個の確立が出来ないと言ってしまったら文明化の道を断つ事になる。
そこで言いたいのが、神が居ないから個の確立が出来ないのではなく、個の確立が出来ないから神が居ないのだと。

2017年7月14日 (金)

文明化

日本が聖俗未分離の前近代社会である事、近代文明が西洋文明である事から鑑みて近代文明を構築している普遍主義を避けては通れない。
それを避けて通っているのが日本である、結局日本人は文明化したくないとも言える。
だから、近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法も普遍主義で構築されているにも関わらず憲法を守れと言うとリベサヨ扱いになる。
普遍主義(洋魂)は避けては通れないのに避けて通ろうとする、洋魂は和魂で代替出来ないのに無視する。
結局普遍主義を拒絶している事に他ならない。
和魂洋才の捻れから逃れる為には洋魂洋才の環境で帰化するしか無いのである。

科学の目的は全能性の追求であり手段は普遍性の追求である。
その両方の追及姿勢の欠如する日本では本来科学の生まれる土壌は欠如し、従って日本の科学は宗教に近い、日本人は科学教の信者であるとも言える。
だからノーベル賞受賞者の根岸さんがインタビューで「真理の探究もさる事ながら科学も大切である」と頓珍漢な事を言ってしまうのである。
科学の目的は真理の探究じゃなかったのか。

一時、普通はとか皆はとか言うと普通とは何だ全員に聞いたのかと絡む人間が跋扈した事がある、そういう人間は必ずや一般論化しないでくれと多様性を主張する、科学の手段が普遍性の追求であり、要素還元主義である以上、共通項で括り一般化しないで科学は成り立たない。

科学の手段が普遍性の追求である以上、科学者こそ普遍主義をもっと知るべきだと思う、普遍性の追求の先に自由平等博愛の考えがあるのだから。

2017年7月 8日 (土)

リベラル再考

今迄和魂洋才の捻れにばかり焦点を当てていたが、現在の日本は敗戦により実質上は和魂洋才から洋魂洋才の状態になっていたとも言える。

それもその筈、戦後は柳田國男の監修した社会科の教科書は検定落ちしGHQ主導のソシアルスタディーズになったのだから。
以前も書いたが戦前のらくろ上等兵を読んでいた軍国少年は戦後は鉄腕アトムを読みこぞって科学少年になったのだ。

前回も書いたが、

「今迄は西欧化をよしとしていたので普遍主義礼賛の風潮があった、憲法前文にも人類普遍の原理と謳われていたからなのだがここに来てそれがガタガタと崩れ始めたのだ。
遂に日本人の本音が本性を現した感じである。」

近代文明が普遍主義で構築されていて、それに基づいて憲法も普遍主義で構築されている、日本人の今やろうとしている事はそれを根こそぎ否定する事である。

本来哲学的に普遍主義、詰まりリベラルを前提に保守と革新に分かれるべきところ日本人は何故か革新をリベラルと呼び哲学的なリベラルと混同しているだけでなく、一部マイノリティーが普遍主義を逆手に取って責めてる事も事実ではあるが、リベサヨとして排斥しているのだ。

後は前回も書いたとおりである、

「リベサヨが建前論で攻めればネットウヨは本音で応戦する、これは建前と本音の戦いなのである。」
「然し残念ながら日本にリベラルの生まれる土壌はなくあくまでも建前論なのである、又ネットウヨが頑なに拘る日本は時代逆行であり近代文明を拒絶するものでお互い相容れない。」

「日本人が建前と本音を使い分ける限り日本人に文明化は望めず、和魂洋才の捻れは続くのだ。」
「一つ言える事は日本人は個も論も欠如するので普遍主義、その基本である自他の哲学ひいてはリベラルを導き出せないのだ、従って哲学的にリベラルを前提に保守と革新が機能する土壌も生まれないという事だ。」
「そもそも日本には哲学が欠如しているので、経済的な観点でしかものを見る事が出来ないので、哲学的にリベラルで政治的にもリベラルであるなんてのは日本には存在し得ない、詰まりリベウヨの概念が欠如しているのだ。」

これが俺が国籍離脱した原因でもあり、哲学的政治的にリベラルである為には自由圏諸国に帰化するしかない所以である。

努力虚しく日本は時代逆行してしまったのだ。

2017年7月 4日 (火)

西洋人の神とは

(´・ω・`)「道徳的で理性的なイデオロギーへの欲求は西欧文化の一部となっている。かたや日本は理性や普遍的な道徳律よりも人間の感情や人間関係のヒエラルキーをはるかに重視している。」

昨日金ビス先生の引用ツイについ

「それを聖俗未分離の前近代社会詰まり未開の土人と呼ぶって書いてないですか?」

と反応してしまったら、

(´・ω・`)「日本には社会の外に、あるいは上にいて私たたち全てを見守っている唯一神は存在しない。その代わりに、特定の社会的情況にふさわしい行動規則や礼儀作法の複雑なシステムが機能しているのである。」

と続いた。

それに今度は、

「未開だから普遍主義の基本の自他の哲学さえ括り出せないから絶対主が居ないだけで、西欧にだって外側には神なんかは居ないでしょ、神は人間の内側に居るんだから。」

とコメツイしたら、

オランダ生まれのこの御仁に言うてくだされ⇒Ian Buruma「日本のサブカルチャー―大衆文化のヒーロー像 」

と言われてしまった。
ウォルフレンの二番煎じかと思いきや、

「もう古参かと。ジャパンスタディ界隈じゃ定番のおひとり。ライデン大学出てテラヤマの欧州公演きっかけにポンニチサブカルに興味持って、という経歴。写真撮ったり映画批評やったりあれこれやっとらすんですが、もともとジャーナリスト系ですね。」

らしい。

その後の俺のツイ、

"日本の神に関する外国人の記述を見る度に思うが彼らも如何にして神が創造されたか迄は理解してないみたいで歯痒い、何とか日本人自らの手で普遍主義を括り出して欲しいものだ。"

"未だに外人の書いた事が恰も事実かの如く流布するって日本人は恥ずかしくないのかね、結局客観の客観視なんて猿でも出来る事を鵜呑みにしてるって事だぜ。"

"でも西洋人なんて呑気でいいよな、自分らの神が外に居るなんて平然と言えるんだから。"

"日本人は自分らが未開の土人だと言うことを必死で否定するが、本音と建前を離れたままに看過してる限り文明化は望めないと気が付かない、本音は言わば主観建前は客観であり、主観を相対化して限りなく客観に近付けると言うのが自他の哲学普遍主義の基本中の基本だから。"

"でも何で日本人は一足飛びに天の神様にすがりたがるのか不思議だよね、何故自分で神様を見つけようとしないんだ、それも皆カルトばかりだぜ、そんな自分らが恥ずかしくないのか、恥さらしの文化か?"

"この倫理規範の欠如する日本で皆何を期待してるのか俺にはさっぱり理解出来ないんだよな、毎日ここに出て来てああでもないこうでもないって建前論並べ立ててりゃこの癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」社会から脱却出来るとでも思ってるのかね出来る訳ないだろうが、胸に手を当てて内なる神に聴いてみな。"

結論として言える事は西洋人も大部分は他人の創り出した神にすがっている事だよ、だから日本人も普遍主義を拒絶するだけじゃなく、自らの手で普遍主義を括り出さない限りいつ迄経っても前近代社会、未開の中世ガラパゴスジャップランドの土人のままなんだよ。

2017年7月 1日 (土)

国籍離脱の勧め

「前川さんの会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。」

と以前書いたが、

前川氏の会見ではっきりした事は彼が憲法に忠実であり、基本的にリベラルで保守と革新に分かれる建前論だという事だ。
ところが多くの日本人は普遍主義詰まりリベラルを拒絶しているのが本音なのだ。

リベサヨが建前論で攻めればネットウヨは本音で応戦する、これは建前と本音の戦いなのである。
然し残念ながら日本にリベラルの生まれる土壌はなくあくまでも建前論なのである、又ネットウヨが頑なに拘る日本は時代逆行であり近代文明を拒絶するものでお互い相容れない。

今迄は西欧化をよしとしていたので普遍主義礼賛の風潮があった、憲法前文にも人類普遍の原理と謳われていたからなのだがここに来てそれがガタガタと崩れ始めたのだ。
遂に日本人の本音が本性を現した感じである。

日本人が建前と本音を使い分ける限り日本人に文明化は望めず、和魂洋才の捻れは続くのだ。
一つ言える事は日本人は個も論も欠如するので普遍主義、その基本である自他の哲学ひいてはリベラルを導き出せないのだ、従って哲学的にリベラルを前提に保守と革新が機能する土壌も生まれないという事だ。

これが俺が国籍離脱を決意した理由だが、こんな環境に身を置いたらおかしくならない方がおかしいのだ。

何度も書いたが、西洋人は一時的に心と身体を話して科学、ひいては近代文明を発展させたが、逆に日本人は近代文明により無理矢理に心と身体を引き裂かれ一億総分裂症になった。

「和魂洋才とは外面と内面を使い分けるということである。これこそまさに精神分裂病質者が試みることである。あるいはこう言った方がよければ、ある危機的状況にあって、外面と内面との使いわけというこの防衛機制を用いることが、精神の分裂をもたらすのである。」

かの岸田秀氏も『ものぐさ精神分析学』で書いているではないか。

悪い事は言わない、狂いたくなければ日本を去る事だ。

2017年6月24日 (土)

前川さんの会見に想う

下記は最近の自分にツイを並べたものである。

前川さんの理路整然とした会見清々しかったよね、仏法を極めた顔付、彼が後輩に贈った言葉、個人の尊厳、国民主権、官僚も政治家も家に帰れば一個人、一国民と俺が言う所以だ。
彼は必ずしも規制に反対ではない、これが俺がいつも言うところの哲学的にリベラルでその下に保守と革新があると言う事だ。

前川さんは思想的に何かあるなとは思ったが仏法だったとは、面従腹背が座右の銘という事も理解出来る、個人の尊厳、国民主権もそこから来る。
個が無に対峙するナチュラリズム、片や個が全に対峙するヒューマニズム、無と全の間を行ったり来たりするホーリズム(トータリタリアンではない)の日本人。

前川さんの会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。

俺はオーストラリアに帰化する事で和魂洋才の捻れから逃れ洋魂洋才の環境で哲学的にもリベラル政治的にもリベラルを標榜出来る様になったと言ってるが、田原総一郎でさえ自由主義国は哲学的にリベラルでその下に政治的に保守かリベラルがあるって理解してないから日本人には無理な話なのかも知れない。

田原総一郎が高校生に他の国は保守とリベラルの二大政党制なのに、日本は両方ともリベラルだから対案が出せないとか説教垂れてたが、彼は以前も明治維新で西欧では一神教だから現人神にしたとか曖昧にぼかしてたけど、西欧は普遍主義つまり政治的にリベラルの元に保守と革新があると何故言わないのだ。

俺が25年日本の特異体質を追求して出た結論が国籍離脱だったという事を日本人はもっと深く考えた方が良いよ、和魂洋才の捻れは衆参の捻れなんて簡単なもんじゃない、政治的にリベラルを唱えるには哲学的にもリベラルにならなきゃ駄目よ、アメリカは哲学的にリベラルでその下に保守とリベラルが来る。

俺は暇な事を良い事に毎日朝から晩まで如何にしたら日本は救われるか考えているが、今の所望みはない、第一に救いは個人に来るもので集団には来ない、早く個の確立が出来るようになって欲しいものだ、神が居ないから個の確立が出来ないのではなく、個の確立が出来ないから神が居ないのだ。

俺は皆様の様に自慢できるものは女房以外に何もないですが、皆様の様に毎日が他人を腐し足を引っ張り会って生きないで済むだけ余程幸せだと思っています、これからも洋魂洋才の社会オーストラリアでひっそりと死ぬ迄生きたいと思います。

2017年5月 6日 (土)

魂才一致の勧め

魂才一致の勧め

社会が変わらないなら自分が抜けるしかない

日本はどう見てももう一度鎖国時代に戻ってそれこそ国際社会から痛い目に遭わされないと目が覚めないみたいだし、筆者はそれに付き合っている時間も無いし、嫌ならやめるという方針から見ても筆者が日本人をやめるのが一番だと思います。
今迄「嫌ならやめろ」を座右の銘として生きて来た自分にとってイデオロギーが相容れない国民でいる事に忍びないのです、既に25年の考察から日本人の文明化は無理だと結論付けた今、最後に残されたものは国籍離脱しかない、日本人でいる限り傷付きまくるからです。
補足しますが日本人でいる限りこの論も個もない前近代社会、中世の癒着談合隠蔽の世界を見ている限り自分を傷付けるだけだし、移住すれば良いなんてのは甘い考えで、移民それも市民権獲得、国籍喪失届け提出までしなければ人生を完結出来ないのです。

海外移住にも色々あります、難民、移民、政治亡命等ですが、日本の場合難民、政治亡命には当て嵌まらないですが、政府から迫害を受けないまでも充分世間から受ける、日本人は警察が要らない程お互いに干渉しあって生きている不思議です、これで共謀罪でも成立すれば日本人を政治亡命で受け入れて呉れる国も出てくるかも知れません。

魂才一致の勧め

一般的に日本人は筆者が「女房みたいに洋魂洋才で育った人間はあっけらかんとしてますよ」と言ってもポカンとしてるしましてや、和魂洋才の弊害、脱亜入欧が間違っていた等と言おうものなら即セルフプロテクションモードに入る事請け合いって事、自分のの安寧を乱すなって顔して。
でも洋魂洋才の世界で生まれ育った女房と和魂洋才の世界で育った筆者の苦悩、困難、葛藤の量の差ってのが想像を絶するもんだって事は死ぬ前に是非皆さんに理解して頂きたいと思っています。

日本も早くネオ和魂一神論をでっち上げて和魂和才にするか、洋魂洋才の属国として隷属的立場を取るか考えた方が良い、日本会議がいくら知恵を絞っても今の和魂じゃ洋才は回らない。

女房も自分は世界情勢に余り関心ないのよねこれって変な事なのかしらって言うから、お前は洋魂洋才の環境で育った体制側で俺は和魂洋才の環境で育ったマイノリティーだからじゃないかって答えたけど、西洋人って実に呑気で良いよね、筆者みたいに人生こねくり回さないで済むから。

女房に「詰まる所黄色は白にはなれないって事よ」と言っても、今迄自分は白を意識して物事を考えた事が無いと言うし、洋魂洋才の環境で育った女房にとってそのことでアイデンティティークライシスに陥ることが無く実に屈託無く暮らしているという事です。

それにしても筆者の女房は良く働きます、これは幾ら感謝してもし過ぎるって事は無い、洋魂洋才の環境で育った女性がいかに屈託無く、ユニバーサルに動けるかってのをまざまざと見せ付けられる、ノマドもへったくれも無いこれだけはノマドを叫ぶ日本人が幾ら騒いでも否定は出来ません。

洋魂洋才の環境で育った女房が屈託も無く異国に来てリモートアクセスで海外サーバーに繋ぎ金を稼ぎ空いた時間は英語を教えて金を稼ぐ姿を見て、日本人の言うグローバルって一体何なんだと疑問に思わざるを得なかったですし、これが和魂洋才の弊害であり翻訳文化のオフライン文化だとも気付かず何の手も打たずにいるから尚更です。

今まで哲学的には普遍主義、政治的には大和民族党と言って憚らないし、そこには矛盾を孕んでいる事も承知していると言っていましたが、今回国籍を離脱する事により、その矛盾を取り払い、政治的にも普遍主義を採る事が出来た、今迄この大和民族という事が大きな足枷になっていた事を今更ながらに感じます。

これからはQOLの追求しかない

日本に見切りを付けたのが2000年、人は失われた20年とか言うが誰一人として取り戻そうとする人間がいない、「日本を取り戻す」とか菜っ葉の肥やしだけですし。

日本人に普遍主義を理解させるのは、イスラム教徒にクリスチャンになれと言ってるのと同じで無理だ、聖俗を分離する事で科学ひいては近代文明を発展させた西欧、聖俗一致を唱え普遍主義を拒絶するイスラム、聖俗未分離の前近代中世社会のまま残ってしまった日本、人為とは思えない程次元を超えているとツイッターでも幾度となく呟いたし、エッセイにも書いたし、それをアマゾンから出版もしたてな訳で、日本人の文明化は天地がひっくり返りでもしなけりゃ無理なので、筆者は当面は専らQOLのアップだけを考えて行きたいのです。

50の時に人格統合も兼ねて自伝をしたためましたが、そろそろ終活期に入る、マヌ法典で言や遊行期って言うのか、もう飽きましたウヨサヨごっこは、後は愛する女房に尽くして生きるしかないです。

日本の特異体質は考え尽くしましたし残るのは国籍離脱への道のりと、WM(血液ガンの一種)サバイバーとしての記録だけだ。
後は愛する女房に尽くすだけ、女房が居てくれたお陰で本当に救われましたし、これだけは幾ら感謝してもし切れないのです。

2017年4月30日 (日)

ワンネス

最後に兄と会った時兄がこんな事を言った、

「君はお爺さんと一緒で、縦横のインデックスが繋がってないと気がすまないのよ」と、さも僕の文章を読んでいる事をほのめかすように言った。
「為ちゃんともそっくりだ、僕にはそういった所が無いから救われた」とも言った。
この「縦横のインデックスが一致しないと気が済まない」って言葉を一時多用していた事がある。
これは祖父の頭脳が恰もリレーショナルデータベースの様であり、父のそれはカード型データベース位の違いが両者の間にはあったという意味合いでだ。

「一方母から受け継いだ片意地な潔癖なども、世渡りの上には少し不便であったが、これとても子孫が似てくれないことを願うほど、悪いものとは思っていない。」

と祖父もどこかで書いていたが、自分は正義が曲げられないし、世間に阿れないし、妥協も出来ず、如何なる矛盾も受け入れられない。
普段から自分のセオリーは国籍離脱しないと完結出来ないとは言っていたものの、これが和魂洋才という最後の矛盾を取り除く事になるとまでは思い及ばなかった。

25年前に自分が一体何が気に入らないのか予備知識の入る前に書いておこうと思い、思いつくままに書き連ね500部だけ非売品として刷り、名刺がわりに配っていた『ワンネス』の最初に

「何を考えていても、何かをしていても、いつもぶち当ってしまうところ、足を引っ張ってしまうもの、何か変だなと感じるもの、まずそれを解決してから進みたい何か。 そんな事を考えている内に十年経ってしまった。 余生を如何に生きるか、これが今の私に課せられた課題である。」

と書き、それから始めた所謂自分探しの旅だが、

ワンネス

「結局私が追求してたのは、ワンネスということであり、ノーバウンダリーだった事が分かって来た。
つまり物と心の二元論を一元に持っていく、二面性のあるものを限りなく一つにするその努力だったのである。
つまり本音は建前に、主観は客観に限りなく近づける努力をする訳である。」

といつの間にか普遍主義追求の旅へと変わって行った。

思えば25年、
ワンネスに始まりワンネスで終わる、
回帰だ、
魂才一致の原則、
和魂和才の柳田國男、
和魂洋才の福沢諭吉、
両方とも敗退したので、
残るは、
洋魂洋才の内村鑑三しかいない、
哲学的にも普遍主義、
政治的にも普遍主義だ。

今回国籍喪失届を領事館に提出して初めて魂才一致が達成された事に気づいた。
普段から国籍離脱しない限り自分のセオリーは完結しないと言っていたものの、それが何故なのか明確じゃなかったのである。
これで名実ともにリベラルになれた。
面白いもので、普段モットーにしていた、国籍を超え、年齢を超え、性別を超えるというスローガンが普遍主義の実践そのものだと知ったのもかなり後になってからだし、ニコラスクザーヌスの所謂、個は全を包含する、一にして全なる個ってのを体感したのも20年掛かってるし、今回25年目にしてやっと魂才一致の原則が、25年前に書いた『ワンネス』と一緒だという事に気付いた。

祖父の霊に導かれ始まった日本の特異体質の追求は再び霊に導かれ終わり、そのまま普遍性追求へと変わって行き、ワンネスの追求に始まり国籍離脱する事で魂才一致という最後の矛盾を取り除きワンネスで完結する事が出来た。

柳田國男を学ぶのか柳田國男に学ぶのか

國男に学ぶ為には、先ず國男を学ぶ必要がある。彼を知る為には、彼のメンタリティーを知らなければならない。 彼の「知」の「技法」を学び、方法論を学び、初めて彼を学ぶ事が出来る。彼に学ぶのはそれからである。

史心 内省 実験

次の図式は柳田國男の基本的な考え方を自分なりに纏めたものです。
國男の考え方の基本
昨日 今日 明日
史心 内省 実験
過去 現在 未来

柳田國男が主張し続けた史心・内省・実験は、各々が過去・現在・未来に対応しているかのごとくに映る。
その大きなうねりの中に、昨日・今日・明日という小さな波が繰り返される。
それは、日常の小さな営みが繰り返される事が、世界の大きな営みを造り出して行くというダイナミズムである。
彼のこの思考方法を理解出来なければ、彼の壮大な考え方は理解出来ない。
これは、自分自身の昨日・今日・明日を考えずして、国の過去・現在・未来を語る事は出来ないという事である。
自分自身の昨日・今日・明日、つまり日常生活のサイクルを、史心・内省・実験のサイクルの中に置く事により、過去・現在・未来を正確に把握する、これが柳田國男が独自に編み出した認識方法なのである。
彼が、哲学は避けて通ると言いつつも、方法論は充分哲学的なのである。
内省を中心に据える事自体が、自分自身を相対化するという哲学の基本なのであり、内省により括り出された理念を実践する事が、彼の所謂実験そのものであり、未来への指針なのである。

柳田國男が和魂和才を追求してた事は逆から言えば和魂洋才への警告である、巷では民俗学は無化したという人間迄出るに至ったが、逆から言えば和魂洋才として如何にも存続し得たような他の各論こそ形骸化してしまっているのに気がついていないだけなのではないだろうか。
つまり、筆者が言うように海外の学説は全てデカルト以降の社会に対応しているのに日本人は無視するか、気が付きもしていないからである。
和魂和才を馬鹿にする人間は和魂洋才が行き詰まっている事にすら気が付かない、それはひとえに洋魂の研究が足りなかった為である。

と「個人学」の勧めでも書いたが、
柳田國男の教えは此処でも生きていた事を再認識させられた。

「私はいつでも現在にとらわれている。変化を受けた、いろいろの影響を受けた日本人を知りたいという心持をもっている。しかしそれをやっておったら研究が非常に複雑になる。なんなら今から若い人たちの見方に加わってもよいが、もとは古い旧日本だけに力を傾けていた。少しく妥協的に聞こえたかもしれぬが、私は久しいあいだ「日本人らしさ」という言葉を使っていた。若い人たちはそれを解して、西洋の文明を受けて生きておくこともその「日本人らしさ」のうちのように考えたかもしれないが、自分だけはそれを固有のもの、開港以前からあったものというつもりだった。あるいは二つに分けて、現代の日本人らしさを知るのを、第二部とでもいっておいたほうがよかったろうか。」

残念ながら柳田國男の括り出した日本人らしさは悉く近代文明にそぐわないものだったが、今迄幾多の日本人論は語られたもののこの第二部を試みた人間は居ない。
この意味でも筆者が日本の特異体質の追求に引き続き普遍性の追求を試み、洋魂洋才の環境に移住し帰化するに至ったのは我ながら感慨深いものがある。
結局最初から最後まで祖父の霊に助けられた。

2016年10月26日 (水)

ナチュラリズムとヒューマニズムのハーモニズムの勧め

これは20年近く前に纏めたものだが、この時点では考えも未だ過激ではなく何とか日本を良い方向に持って行きたいという願望が強く出ている。
何せ最初のテーマはポストモダンのエートスを求めてというもので未だポストモダンそのものを否定していなかった。
河合隼雄氏の説も日本の全体主義、個の欠如を何とか活かそうと苦労した後が見られるがこれでは世間こそが絶対となり、今の世間こそが正義と変わらないではないの?

河合隼雄氏は前掲の「日本人の心のゆくえ」 の中で、「ネットワーク・アイデンティティー」と題してこう説明される。

「西洋近代をプロモートしてきた一神論的思考(もちろん、これは一神教と同じではない)に、日本人は縛られすぎたのではないか。このあたりで、多神論的な多様性に気づかねばならない。 このような状況を破っていくこととして、『ネットワーク・アイデンティティー』ということを考えている。私という人間は唯一の存在である。

しかし、それを支え、根づかせるものとして『唯一』のものを探そうとしない。
『私』をささえるものは『ネットワーク』である。というと、私が家族とか友人とかの関係によって支えられることか、と思があろうが、それは間違いである。
それは最初に述べたように、その人との関係の喪失によってアイデンティティーが崩れ去るものである。
ここでのべている『ネットワーク』は自分の心のなかにもつものである。 これまでに述べてきた宗教的な用語を用いるならば、『私』を支えるものを『存在者』では無く『存在』と考えるのだ。
そして、『存在』はネットワークそのものだ。すべてが複雑にからみ合っている。それは多であって一である。〈中略〉
国際化が激しい時代に、日本人として生きつつ、国際社会の一員として他国の人々と対等に生き、世界に対して何らかの貢献をしようとするためには、ネットワーク・アイデンティティーということを見出す努力をするべきであると思う。」

河合氏が「存在」はネットワークそのものであると言う「存在」の追求が、全ての宗教を超えた近代文明の下における個の在り方であり、筆者が近代文明は個から全への循環するシステムであると言う所以でもある。
「IMG_3244.JPG」をダウンロード
神道自らも「個の意識が、個の意識の集合体或いは総体としての宇宙からのフィードバックにより高まり、それが社会に反映する。」と言う様な、「ネオ・シャーマニズム」とも言うべき宇宙観を導きだし、ナチュラリズムとヒューマニズムのハーモニズムを先取りする位でないと、日本に於ける文化と文明の齟齬は取り払えないのである。

「環境破壊が深刻化するわが国で、自然と人間のコミュニケーションの問題は改めて深められなければならない。そして自然と人間とが真に交流する際には、人間が「オレ」を放棄してかかることが条件であるとのアニミスティックな、あるいはシャーマニスティックな考え方再評価される必要があろう。。それは決してトランスに入れということではない。」

宗教人類学者の佐々木宏幹氏は「神と仏と日本人」 の中でこう述べている。

それともこれを近代に求めるのは無理であり、ポスト・モダンに期待する以外に無いのかも知れない。
均質化或いは共通点を見い出す、いずれも普遍性追求姿勢から生じる。 この言葉の違いを乗り越えるだけ取り上げても共通認識というものが如何に難しいかが判る。
そもそも普遍性追求姿勢の欠如するところに共通認識を期待する方が間違っているとも言えるのである。
先ずは近代を理解する事である。

筆者が図らずも括り出した近代のキーワードは、ロジック及びそれにより導き出されるインディヴィデュアルという概念であり、日本語では「論理」及び「個人」と訳されているものである。

つまり「論」と「個」である。 その上、その「論」と「個」こそが日本人の一番不得手とするものだったのである。 前述の対談の中で、柳田國男が「私はどうも自己完成っていうものはそんなに究極の目的だと思ったことは一ぺんもないんです。」といみじくも言っている様に、「自己」或は「個人」という概念に対する認識のずれがその辺から始まっているのである。

次の表はポストモダンがヒューマニズムとナチュラリズムのハーモニズムになると仮定して、私が纏めたものです。
幸か不幸か日本は聖俗未分離のままモダンを迎え(これが真の意味でのモダンと呼べるか否かは別にして)やがてポストモダンの世の中を迎えようとしています。
「IMG_3243.JPG」をダウンロード
この表を見て頂けばお判りになると思いますが、日本は丁度東と西の中間に位置し、そのままハ-モニズムに移行するのに一番都合の良い場所に位置しているのです。
今日本に何が必要なのかと言うと、スクラップアンドビルドなのです、つまりホ-リズムから一度脱却してハーモニズムにシフトするパラダイム・シフトなのです。


2016年9月11日 (日)

【復刻版】続9/11に想う

ポストモダン

机上の空論
これは、普段の評論的コメントが如何に机上の空論的であって、平時にだけ通用し、戦時にはからきしである事を自戒を込めて再考し、今こそ日本人として独自の視点に立って意見を表明すべきであるとの、柳田の私見を纏めたものです。
次の文はNAKKOさんが私の掲示板に書き込みして下さった時に、私がそれに応えて書き込みをしたものであり、その後まなちゃんも同じ様なコメントを書き込みして呉れて、結局三人とも従来の視点からだけでは充分な答が導き出せないで、頭の中だけで考えが空転してしまったみたいである。
お立ち寄り有難うございました。 投稿者:柳田芳秋 投稿日:2001/10/05(Fri) 08:57 No.1421
実は僕も筆が進まないので、家で豚の角煮の研究なぞに励んでいました。 仰る通り、自分にはどうしようもない世界で変化があり、それでも自分は通常どおり生活を維持して行かなければならない。こんな時にも人間は自分の家族の事で想いをめぐらせ、同時に今晩何を食べようかと悩み、明日何を着ようかと悩む、つまり自分に出来る事は足元から固めて行く事だけであると再認識させられたと言うのもあります。
今迄は、「ポストモダンのエートスを求めて」とか、「パラダイムシフト」なんて言って、机上の空論的自己満足で済んでいました、つまり、モデルをアメリカに置いて、西側諸国の視点で書いていれば事足りていたのですが、世界の局面が少し先に進んでしまい、今までのマンネリ社会批判では到底追い着いて行けないような所に達してしまったみたいで、今度こそ日本も独自の考え方を世界に向かって表明する時が来てしまったみたいでもあります。
アメリカでは今度の事件を捉えて、自由に対する挑戦だとか言って居ますけど、どう見ても行き過ぎる自由に対する警鐘みたいなものを感じてしまい、米国追随型の日本が追い着かない内に本家本元は熟し切り行き詰まってしまった感もします。 結局この先このまま米国に追随すれば結果が明らかな時に、敢えてその道を選ぶという事は出来ないと言う事です。 東西冷戦時代は対共産主義という旗印がありましたけど、今回のは富と貧困、強者と弱者みたいな対比で、モチベーションがイデオロギーというよりもヘイトレッドですので、どちらかと言うと知性の問題と言うより、感性の問題ですので、ロジックを振りかざせば振りかざすほど空回りして、「それがどうした」って感じで逆効果みたいです。
結局世界は情報であふれ、アメリカの飴と鞭の使い分けとか、この期に及んでも結局は国のエゴの為に動くだけだと言う事が事細かく伝わり過ぎて、人間の限界を見せ付けられている感じもします。 ここで、割り切って自分に出来るのは足元から固める事だけだと思い切れれば良いのですが、中々そうも行かないのが人間で参ります。

一人一人の良識の範囲では、「暴力による解決は避けるべきである」というのは明白だと思う。 しかし、あのニューヨークでの大量の犠牲者を前に「報復行為は罪です、ただ祈りましょう」と明言する自信のある人が居ない。 我々の持ち合わせている通常の倫理規範では、首謀者オサマ・ビンラディン及びその組織アルカイダ、叉それを庇うタリバン報復を悪であると導けるだけの論拠が乏しい。 下手に良識を振りかざすと偽善者っぽくなってしまうし、かと言って国粋主義も現代的ではないし、恰も 「彼方は自己犠牲を払ってこの問題解決に尽力出来ますか」と問われているみたいなものであり、ヒポクリットかパトリオットかと選択を迫られた時に、今迄みたいに優等生をやっていられない程追い詰められてしまった様なものである。
結局は個人のエゴは許されなくても、国家のエゴは許されてしまうという事なのである。 国家挙げて「自由」を標榜していながら、彼等の所謂「自由」を望まない人達に対して、選択の自由を与えないという矛盾を生じる。 つまり、西側諸国の論理を、全く別の論理基盤に則った人達に対して押し付ける事になってしまう。 皆一様に気が付いているにも拘わらず、他に判断規準の持ち合わせが無い為に、黙認してしまう。 それでもアメリカも気が咎めるのか、申し訳程度に、一般市民は自由を望んでいるに違いないという希望的観測により、「兵糧攻め作戦」と平行して救援物資を増やし、「北風と太陽作戦」ならぬ、懐柔策を練る。 これが選択肢を与えられたと言えるかどうかは疑問だが、「窮鼠猫を噛む」か「窮鳥懐に入る」かの選択肢が与えられた時に、かつて日本の「神風」、「腹切り」、「万歳」といった特攻を煽ったやり方と同じで、合法的集団レイプみたいなもんである。つまり、彼等も嵌められたのである。彼等は自由より先に何よりも平和を望んでいるのであって、自由の名の下に彼等の平和を乱し、それを制圧し如何にも我こそが救い主であるというような顔をするのはいい加減にやめてもらいたいものである。これではまるで、警察が最近犯罪が少なくて平和すぎて暇でしょうがないから、あのギャングを煽って内部抗争を起こさせて、腕が鈍るのを防ごうとしているのと同じである。
現にかつて猫を噛んだ鼠も、今では大きな懐に抱かれた手乗り文鳥みたいに飼いならされてしまったでは無いか。 日本はそれを一度経験しているのにも拘わらず今回もその同じ手口に加担しようとしているのである。 WTCがニューヨークじゃなくて浜松町だったらどうしたか、オウムが日本人じゃなくてイスラム原理主義者だったらどうしたか、もう一度考え直してみると、反対出来るのは日本だけしかないという事も言えるのである。今の平和憲法が押し付けられたと思っているなら、押し付けた方々の責任の下に判断を仰いでみたら如何なものか、憲法記念日だけに憲法の事を考えたり、終戦記念日だけに原爆の事を考えたり、おざなりなものでなく、只一つの原爆被爆国であり、平和憲法を保持する日本国として、少しはアメリカの自己矛盾を追求する姿勢が欲しいものである。 普段あれだけ押し付けられた普遍主義と言って毛嫌いしている割に、他の国に押し付ける手伝いはするって言うのじゃ、同じ穴のむじなと言われても文句は言えない。
今回のテロ事件が冷戦後の新しい紛争の形だとすると、ブッシュが十字軍を例に挙げて失言したり、イタリアの外相が、「彼らの文明は1400年前と変わらず、我々の文明の優越性にもっと自信を持とう」みたいな失言をしてしまうのを見ると、時代は12世紀に戻って新しい東西問題が生じてしまったみたいなものである。 つまり、これ等が失言になってしまう位、西欧文明と言うものの普及率は低いという事を自ら認めている事でもある。 大体東ローマ帝国がオスマントルコに侵略されて、多くの東側の学者が西ローマ帝国に流れ込んで、ルネサンスが興り、現在の近代文明を作り上げたという歴史的時点にまで遡ってしまった感じでもある。 つまり、これはローマ法王を含む西側諸国が究極の質問状を突きつけられたと言っても過言では無い。 「所謂、彼方方の信じる神ってのは一体何なんですか」と。

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