2017年5月 6日 (土)

魂才一致の勧め

魂才一致の勧め

社会が変わらないなら自分が抜けるしかない

日本はどう見てももう一度鎖国時代に戻ってそれこそ国際社会から痛い目に遭わされないと目が覚めないみたいだし、筆者はそれに付き合っている時間も無いし、嫌ならやめるという方針から見ても筆者が日本人をやめるのが一番だと思います。
今迄「嫌ならやめろ」を座右の銘として生きて来た自分にとってイデオロギーが相容れない国民でいる事に忍びないのです、既に25年の考察から日本人の文明化は無理だと結論付けた今、最後に残されたものは国籍離脱しかない、日本人でいる限り傷付きまくるからです。
補足しますが日本人でいる限りこの論も個もない前近代社会、中世の癒着談合隠蔽の世界を見ている限り自分を傷付けるだけだし、移住すれば良いなんてのは甘い考えで、移民それも市民権獲得、国籍喪失届け提出までしなければ人生を完結出来ないのです。

海外移住にも色々あります、難民、移民、政治亡命等ですが、日本の場合難民、政治亡命には当て嵌まらないですが、政府から迫害を受けないまでも充分世間から受ける、日本人は警察が要らない程お互いに干渉しあって生きている不思議です、これで共謀罪でも成立すれば日本人を政治亡命で受け入れて呉れる国も出てくるかも知れません。

魂才一致の勧め

一般的に日本人は筆者が「女房みたいに洋魂洋才で育った人間はあっけらかんとしてますよ」と言ってもポカンとしてるしましてや、和魂洋才の弊害、脱亜入欧が間違っていた等と言おうものなら即セルフプロテクションモードに入る事請け合いって事、自分のの安寧を乱すなって顔して。
でも洋魂洋才の世界で生まれ育った女房と和魂洋才の世界で育った筆者の苦悩、困難、葛藤の量の差ってのが想像を絶するもんだって事は死ぬ前に是非皆さんに理解して頂きたいと思っています。

日本も早くネオ和魂一神論をでっち上げて和魂和才にするか、洋魂洋才の属国として隷属的立場を取るか考えた方が良い、日本会議がいくら知恵を絞っても今の和魂じゃ洋才は回らない。

女房も自分は世界情勢に余り関心ないのよねこれって変な事なのかしらって言うから、お前は洋魂洋才の環境で育った体制側で俺は和魂洋才の環境で育ったマイノリティーだからじゃないかって答えたけど、西洋人って実に呑気で良いよね、筆者みたいに人生こねくり回さないで済むから。

女房に「詰まる所黄色は白にはなれないって事よ」と言っても、今迄自分は白を意識して物事を考えた事が無いと言うし、洋魂洋才の環境で育った女房にとってそのことでアイデンティティークライシスに陥ることが無く実に屈託無く暮らしているという事です。

それにしても筆者の女房は良く働きます、これは幾ら感謝してもし過ぎるって事は無い、洋魂洋才の環境で育った女性がいかに屈託無く、ユニバーサルに動けるかってのをまざまざと見せ付けられる、ノマドもへったくれも無いこれだけはノマドを叫ぶ日本人が幾ら騒いでも否定は出来ません。

洋魂洋才の環境で育った女房が屈託も無く異国に来てリモートアクセスで海外サーバーに繋ぎ金を稼ぎ空いた時間は英語を教えて金を稼ぐ姿を見て、日本人の言うグローバルって一体何なんだと疑問に思わざるを得なかったですし、これが和魂洋才の弊害であり翻訳文化のオフライン文化だとも気付かず何の手も打たずにいるから尚更です。

今まで哲学的には普遍主義、政治的には大和民族党と言って憚らないし、そこには矛盾を孕んでいる事も承知していると言っていましたが、今回国籍を離脱する事により、その矛盾を取り払い、政治的にも普遍主義を採る事が出来た、今迄この大和民族という事が大きな足枷になっていた事を今更ながらに感じます。

これからはQOLの追求しかない

日本に見切りを付けたのが2000年、人は失われた20年とか言うが誰一人として取り戻そうとする人間がいない、「日本を取り戻す」とか菜っ葉の肥やしだけですし。

日本人に普遍主義を理解させるのは、イスラム教徒にクリスチャンになれと言ってるのと同じで無理だ、聖俗を分離する事で科学ひいては近代文明を発展させた西欧、聖俗一致を唱え普遍主義を拒絶するイスラム、聖俗未分離の前近代中世社会のまま残ってしまった日本、人為とは思えない程次元を超えているとツイッターでも幾度となく呟いたし、エッセイにも書いたし、それをアマゾンから出版もしたてな訳で、日本人の文明化は天地がひっくり返りでもしなけりゃ無理なので、筆者は当面は専らQOLのアップだけを考えて行きたいのです。

50の時に人格統合も兼ねて自伝をしたためましたが、そろそろ終活期に入る、マヌ法典で言や遊行期って言うのか、もう飽きましたウヨサヨごっこは、後は愛する女房に尽くして生きるしかないです。

日本の特異体質は考え尽くしましたし残るのは国籍離脱への道のりと、WM(血液ガンの一種)サバイバーとしての記録だけだ。
後は愛する女房に尽くすだけ、女房が居てくれたお陰で本当に救われましたし、これだけは幾ら感謝してもし切れないのです。

2017年4月30日 (日)

ワンネス

最後に兄と会った時兄がこんな事を言った、

「君はお爺さんと一緒で、縦横のインデックスが繋がってないと気がすまないのよ」と、さも僕の文章を読んでいる事をほのめかすように言った。
「為ちゃんともそっくりだ、僕にはそういった所が無いから救われた」とも言った。
この「縦横のインデックスが一致しないと気が済まない」って言葉を一時多用していた事がある。
これは祖父の頭脳が恰もリレーショナルデータベースの様であり、父のそれはカード型データベース位の違いが両者の間にはあったという意味合いでだ。

「一方母から受け継いだ片意地な潔癖なども、世渡りの上には少し不便であったが、これとても子孫が似てくれないことを願うほど、悪いものとは思っていない。」

と祖父もどこかで書いていたが、自分は正義が曲げられないし、世間に阿れないし、妥協も出来ず、如何なる矛盾も受け入れられない。
普段から自分のセオリーは国籍離脱しないと完結出来ないとは言っていたものの、これが和魂洋才という最後の矛盾を取り除く事になるとまでは思い及ばなかった。

25年前に自分が一体何が気に入らないのか予備知識の入る前に書いておこうと思い、思いつくままに書き連ね500部だけ非売品として刷り、名刺がわりに配っていた『ワンネス』の最初に

「何を考えていても、何かをしていても、いつもぶち当ってしまうところ、足を引っ張ってしまうもの、何か変だなと感じるもの、まずそれを解決してから進みたい何か。 そんな事を考えている内に十年経ってしまった。 余生を如何に生きるか、これが今の私に課せられた課題である。」

と書き、それから始めた所謂自分探しの旅だが、

ワンネス

「結局私が追求してたのは、ワンネスということであり、ノーバウンダリーだった事が分かって来た。
つまり物と心の二元論を一元に持っていく、二面性のあるものを限りなく一つにするその努力だったのである。
つまり本音は建前に、主観は客観に限りなく近づける努力をする訳である。」

といつの間にか普遍主義追求の旅へと変わって行った。

思えば25年、
ワンネスに始まりワンネスで終わる、
回帰だ、
魂才一致の原則、
和魂和才の柳田國男、
和魂洋才の福沢諭吉、
両方とも敗退したので、
残るは、
洋魂洋才の内村鑑三しかいない、
哲学的にも普遍主義、
政治的にも普遍主義だ。

今回国籍喪失届を領事館に提出して初めて魂才一致が達成された事に気づいた。
普段から国籍離脱しない限り自分のセオリーは完結しないと言っていたものの、それが何故なのか明確じゃなかったのである。
これで名実ともにリベラルになれた。
面白いもので、普段モットーにしていた、国籍を超え、年齢を超え、性別を超えるというスローガンが普遍主義の実践そのものだと知ったのもかなり後になってからだし、ニコラスクザーヌスの所謂、個は全を包含する、一にして全なる個ってのを体感したのも20年掛かってるし、今回25年目にしてやっと魂才一致の原則が、25年前に書いた『ワンネス』と一緒だという事に気付いた。

祖父の霊に導かれ始まった日本の特異体質の追求は再び霊に導かれ終わり、そのまま普遍性追求へと変わって行き、ワンネスの追求に始まり国籍離脱する事で魂才一致という最後の矛盾を取り除きワンネスで完結する事が出来た。

柳田國男を学ぶのか柳田國男に学ぶのか

國男に学ぶ為には、先ず國男を学ぶ必要がある。彼を知る為には、彼のメンタリティーを知らなければならない。 彼の「知」の「技法」を学び、方法論を学び、初めて彼を学ぶ事が出来る。彼に学ぶのはそれからである。

史心 内省 実験

次の図式は柳田國男の基本的な考え方を自分なりに纏めたものです。
國男の考え方の基本
昨日 今日 明日
史心 内省 実験
過去 現在 未来

柳田國男が主張し続けた史心・内省・実験は、各々が過去・現在・未来に対応しているかのごとくに映る。
その大きなうねりの中に、昨日・今日・明日という小さな波が繰り返される。
それは、日常の小さな営みが繰り返される事が、世界の大きな営みを造り出して行くというダイナミズムである。
彼のこの思考方法を理解出来なければ、彼の壮大な考え方は理解出来ない。
これは、自分自身の昨日・今日・明日を考えずして、国の過去・現在・未来を語る事は出来ないという事である。
自分自身の昨日・今日・明日、つまり日常生活のサイクルを、史心・内省・実験のサイクルの中に置く事により、過去・現在・未来を正確に把握する、これが柳田國男が独自に編み出した認識方法なのである。
彼が、哲学は避けて通ると言いつつも、方法論は充分哲学的なのである。
内省を中心に据える事自体が、自分自身を相対化するという哲学の基本なのであり、内省により括り出された理念を実践する事が、彼の所謂実験そのものであり、未来への指針なのである。

柳田國男が和魂和才を追求してた事は逆から言えば和魂洋才への警告である、巷では民俗学は無化したという人間迄出るに至ったが、逆から言えば和魂洋才として如何にも存続し得たような他の各論こそ形骸化してしまっているのに気がついていないだけなのではないだろうか。
つまり、筆者が言うように海外の学説は全てデカルト以降の社会に対応しているのに日本人は無視するか、気が付きもしていないからである。
和魂和才を馬鹿にする人間は和魂洋才が行き詰まっている事にすら気が付かない、それはひとえに洋魂の研究が足りなかった為である。

と「個人学」の勧めでも書いたが、
柳田國男の教えは此処でも生きていた事を再認識させられた。

「私はいつでも現在にとらわれている。変化を受けた、いろいろの影響を受けた日本人を知りたいという心持をもっている。しかしそれをやっておったら研究が非常に複雑になる。なんなら今から若い人たちの見方に加わってもよいが、もとは古い旧日本だけに力を傾けていた。少しく妥協的に聞こえたかもしれぬが、私は久しいあいだ「日本人らしさ」という言葉を使っていた。若い人たちはそれを解して、西洋の文明を受けて生きておくこともその「日本人らしさ」のうちのように考えたかもしれないが、自分だけはそれを固有のもの、開港以前からあったものというつもりだった。あるいは二つに分けて、現代の日本人らしさを知るのを、第二部とでもいっておいたほうがよかったろうか。」

残念ながら柳田國男の括り出した日本人らしさは悉く近代文明にそぐわないものだったが、今迄幾多の日本人論は語られたもののこの第二部を試みた人間は居ない。
この意味でも筆者が日本の特異体質の追求に引き続き普遍性の追求を試み、洋魂洋才の環境に移住し帰化するに至ったのは我ながら感慨深いものがある。
結局最初から最後まで祖父の霊に助けられた。

2016年10月26日 (水)

ナチュラリズムとヒューマニズムのハーモニズムの勧め

これは20年近く前に纏めたものだが、この時点では考えも未だ過激ではなく何とか日本を良い方向に持って行きたいという願望が強く出ている。
何せ最初のテーマはポストモダンのエートスを求めてというもので未だポストモダンそのものを否定していなかった。
河合隼雄氏の説も日本の全体主義、個の欠如を何とか活かそうと苦労した後が見られるがこれでは世間こそが絶対となり、今の世間こそが正義と変わらないではないの?

河合隼雄氏は前掲の「日本人の心のゆくえ」 の中で、「ネットワーク・アイデンティティー」と題してこう説明される。

「西洋近代をプロモートしてきた一神論的思考(もちろん、これは一神教と同じではない)に、日本人は縛られすぎたのではないか。このあたりで、多神論的な多様性に気づかねばならない。 このような状況を破っていくこととして、『ネットワーク・アイデンティティー』ということを考えている。私という人間は唯一の存在である。

しかし、それを支え、根づかせるものとして『唯一』のものを探そうとしない。
『私』をささえるものは『ネットワーク』である。というと、私が家族とか友人とかの関係によって支えられることか、と思があろうが、それは間違いである。
それは最初に述べたように、その人との関係の喪失によってアイデンティティーが崩れ去るものである。
ここでのべている『ネットワーク』は自分の心のなかにもつものである。 これまでに述べてきた宗教的な用語を用いるならば、『私』を支えるものを『存在者』では無く『存在』と考えるのだ。
そして、『存在』はネットワークそのものだ。すべてが複雑にからみ合っている。それは多であって一である。〈中略〉
国際化が激しい時代に、日本人として生きつつ、国際社会の一員として他国の人々と対等に生き、世界に対して何らかの貢献をしようとするためには、ネットワーク・アイデンティティーということを見出す努力をするべきであると思う。」

河合氏が「存在」はネットワークそのものであると言う「存在」の追求が、全ての宗教を超えた近代文明の下における個の在り方であり、筆者が近代文明は個から全への循環するシステムであると言う所以でもある。
「IMG_3244.JPG」をダウンロード
神道自らも「個の意識が、個の意識の集合体或いは総体としての宇宙からのフィードバックにより高まり、それが社会に反映する。」と言う様な、「ネオ・シャーマニズム」とも言うべき宇宙観を導きだし、ナチュラリズムとヒューマニズムのハーモニズムを先取りする位でないと、日本に於ける文化と文明の齟齬は取り払えないのである。

「環境破壊が深刻化するわが国で、自然と人間のコミュニケーションの問題は改めて深められなければならない。そして自然と人間とが真に交流する際には、人間が「オレ」を放棄してかかることが条件であるとのアニミスティックな、あるいはシャーマニスティックな考え方再評価される必要があろう。。それは決してトランスに入れということではない。」

宗教人類学者の佐々木宏幹氏は「神と仏と日本人」 の中でこう述べている。

それともこれを近代に求めるのは無理であり、ポスト・モダンに期待する以外に無いのかも知れない。
均質化或いは共通点を見い出す、いずれも普遍性追求姿勢から生じる。 この言葉の違いを乗り越えるだけ取り上げても共通認識というものが如何に難しいかが判る。
そもそも普遍性追求姿勢の欠如するところに共通認識を期待する方が間違っているとも言えるのである。
先ずは近代を理解する事である。

筆者が図らずも括り出した近代のキーワードは、ロジック及びそれにより導き出されるインディヴィデュアルという概念であり、日本語では「論理」及び「個人」と訳されているものである。

つまり「論」と「個」である。 その上、その「論」と「個」こそが日本人の一番不得手とするものだったのである。 前述の対談の中で、柳田國男が「私はどうも自己完成っていうものはそんなに究極の目的だと思ったことは一ぺんもないんです。」といみじくも言っている様に、「自己」或は「個人」という概念に対する認識のずれがその辺から始まっているのである。

次の表はポストモダンがヒューマニズムとナチュラリズムのハーモニズムになると仮定して、私が纏めたものです。
幸か不幸か日本は聖俗未分離のままモダンを迎え(これが真の意味でのモダンと呼べるか否かは別にして)やがてポストモダンの世の中を迎えようとしています。
「IMG_3243.JPG」をダウンロード
この表を見て頂けばお判りになると思いますが、日本は丁度東と西の中間に位置し、そのままハ-モニズムに移行するのに一番都合の良い場所に位置しているのです。
今日本に何が必要なのかと言うと、スクラップアンドビルドなのです、つまりホ-リズムから一度脱却してハーモニズムにシフトするパラダイム・シフトなのです。


2016年9月11日 (日)

【復刻版】続9/11に想う

ポストモダン

机上の空論
これは、普段の評論的コメントが如何に机上の空論的であって、平時にだけ通用し、戦時にはからきしである事を自戒を込めて再考し、今こそ日本人として独自の視点に立って意見を表明すべきであるとの、柳田の私見を纏めたものです。
次の文はNAKKOさんが私の掲示板に書き込みして下さった時に、私がそれに応えて書き込みをしたものであり、その後まなちゃんも同じ様なコメントを書き込みして呉れて、結局三人とも従来の視点からだけでは充分な答が導き出せないで、頭の中だけで考えが空転してしまったみたいである。
お立ち寄り有難うございました。 投稿者:柳田芳秋 投稿日:2001/10/05(Fri) 08:57 No.1421
実は僕も筆が進まないので、家で豚の角煮の研究なぞに励んでいました。 仰る通り、自分にはどうしようもない世界で変化があり、それでも自分は通常どおり生活を維持して行かなければならない。こんな時にも人間は自分の家族の事で想いをめぐらせ、同時に今晩何を食べようかと悩み、明日何を着ようかと悩む、つまり自分に出来る事は足元から固めて行く事だけであると再認識させられたと言うのもあります。
今迄は、「ポストモダンのエートスを求めて」とか、「パラダイムシフト」なんて言って、机上の空論的自己満足で済んでいました、つまり、モデルをアメリカに置いて、西側諸国の視点で書いていれば事足りていたのですが、世界の局面が少し先に進んでしまい、今までのマンネリ社会批判では到底追い着いて行けないような所に達してしまったみたいで、今度こそ日本も独自の考え方を世界に向かって表明する時が来てしまったみたいでもあります。
アメリカでは今度の事件を捉えて、自由に対する挑戦だとか言って居ますけど、どう見ても行き過ぎる自由に対する警鐘みたいなものを感じてしまい、米国追随型の日本が追い着かない内に本家本元は熟し切り行き詰まってしまった感もします。 結局この先このまま米国に追随すれば結果が明らかな時に、敢えてその道を選ぶという事は出来ないと言う事です。 東西冷戦時代は対共産主義という旗印がありましたけど、今回のは富と貧困、強者と弱者みたいな対比で、モチベーションがイデオロギーというよりもヘイトレッドですので、どちらかと言うと知性の問題と言うより、感性の問題ですので、ロジックを振りかざせば振りかざすほど空回りして、「それがどうした」って感じで逆効果みたいです。
結局世界は情報であふれ、アメリカの飴と鞭の使い分けとか、この期に及んでも結局は国のエゴの為に動くだけだと言う事が事細かく伝わり過ぎて、人間の限界を見せ付けられている感じもします。 ここで、割り切って自分に出来るのは足元から固める事だけだと思い切れれば良いのですが、中々そうも行かないのが人間で参ります。

一人一人の良識の範囲では、「暴力による解決は避けるべきである」というのは明白だと思う。 しかし、あのニューヨークでの大量の犠牲者を前に「報復行為は罪です、ただ祈りましょう」と明言する自信のある人が居ない。 我々の持ち合わせている通常の倫理規範では、首謀者オサマ・ビンラディン及びその組織アルカイダ、叉それを庇うタリバン報復を悪であると導けるだけの論拠が乏しい。 下手に良識を振りかざすと偽善者っぽくなってしまうし、かと言って国粋主義も現代的ではないし、恰も 「彼方は自己犠牲を払ってこの問題解決に尽力出来ますか」と問われているみたいなものであり、ヒポクリットかパトリオットかと選択を迫られた時に、今迄みたいに優等生をやっていられない程追い詰められてしまった様なものである。
結局は個人のエゴは許されなくても、国家のエゴは許されてしまうという事なのである。 国家挙げて「自由」を標榜していながら、彼等の所謂「自由」を望まない人達に対して、選択の自由を与えないという矛盾を生じる。 つまり、西側諸国の論理を、全く別の論理基盤に則った人達に対して押し付ける事になってしまう。 皆一様に気が付いているにも拘わらず、他に判断規準の持ち合わせが無い為に、黙認してしまう。 それでもアメリカも気が咎めるのか、申し訳程度に、一般市民は自由を望んでいるに違いないという希望的観測により、「兵糧攻め作戦」と平行して救援物資を増やし、「北風と太陽作戦」ならぬ、懐柔策を練る。 これが選択肢を与えられたと言えるかどうかは疑問だが、「窮鼠猫を噛む」か「窮鳥懐に入る」かの選択肢が与えられた時に、かつて日本の「神風」、「腹切り」、「万歳」といった特攻を煽ったやり方と同じで、合法的集団レイプみたいなもんである。つまり、彼等も嵌められたのである。彼等は自由より先に何よりも平和を望んでいるのであって、自由の名の下に彼等の平和を乱し、それを制圧し如何にも我こそが救い主であるというような顔をするのはいい加減にやめてもらいたいものである。これではまるで、警察が最近犯罪が少なくて平和すぎて暇でしょうがないから、あのギャングを煽って内部抗争を起こさせて、腕が鈍るのを防ごうとしているのと同じである。
現にかつて猫を噛んだ鼠も、今では大きな懐に抱かれた手乗り文鳥みたいに飼いならされてしまったでは無いか。 日本はそれを一度経験しているのにも拘わらず今回もその同じ手口に加担しようとしているのである。 WTCがニューヨークじゃなくて浜松町だったらどうしたか、オウムが日本人じゃなくてイスラム原理主義者だったらどうしたか、もう一度考え直してみると、反対出来るのは日本だけしかないという事も言えるのである。今の平和憲法が押し付けられたと思っているなら、押し付けた方々の責任の下に判断を仰いでみたら如何なものか、憲法記念日だけに憲法の事を考えたり、終戦記念日だけに原爆の事を考えたり、おざなりなものでなく、只一つの原爆被爆国であり、平和憲法を保持する日本国として、少しはアメリカの自己矛盾を追求する姿勢が欲しいものである。 普段あれだけ押し付けられた普遍主義と言って毛嫌いしている割に、他の国に押し付ける手伝いはするって言うのじゃ、同じ穴のむじなと言われても文句は言えない。
今回のテロ事件が冷戦後の新しい紛争の形だとすると、ブッシュが十字軍を例に挙げて失言したり、イタリアの外相が、「彼らの文明は1400年前と変わらず、我々の文明の優越性にもっと自信を持とう」みたいな失言をしてしまうのを見ると、時代は12世紀に戻って新しい東西問題が生じてしまったみたいなものである。 つまり、これ等が失言になってしまう位、西欧文明と言うものの普及率は低いという事を自ら認めている事でもある。 大体東ローマ帝国がオスマントルコに侵略されて、多くの東側の学者が西ローマ帝国に流れ込んで、ルネサンスが興り、現在の近代文明を作り上げたという歴史的時点にまで遡ってしまった感じでもある。 つまり、これはローマ法王を含む西側諸国が究極の質問状を突きつけられたと言っても過言では無い。 「所謂、彼方方の信じる神ってのは一体何なんですか」と。

【復刻版】9/11に想う

ポストモダン

ニューヨーク・ワールド・トレード・センターテロ事件が教えるもの
今回のニューヨーク・ワールド・トレード・センターテロ事件を境に、人類はポストモダンのエートスを真剣に考えるべき時期に突入してしまった。下記は、私が、「ポストモダンのエートスを求めて」というテーマの下に書き綴ったものの一部であり、個人主義の観点から日米を比較したものであり、この時点では未だ、国家の在り方よりも個人の在り方に重点が置かれたコンテクストになっているが、今回のテロ以来の米国の態度を見る限りでは、最早、個人主義が安定しているとは言い難く、近代文明の危険性をもろに露呈する結果を招いている。これを機会に真の普遍性の追求をしたいものである。

個の行方
今迄日本の見本であり続けたアメリカは非常に好戦的な国である。 民主主義を守る為に世界の警察として日夜戦い続けているのであると言わんばかりに振る舞っている。まるでスーパーマンの台詞みたいである。 そのアメリカは自由を追求する余り世界中から移民を集め人種の坩堝と化している。 然し乍ら民主主義を守り通そうとする力には驚くべきものがあり、如何に国が暴れようとも国民個人個人は自由主義、個人主義を守り通して安定している。 これも自由を守る為の危険負担の原則が徹底しているからか、それとも個から全への循環システムがプロテクトとして働いているからか見上げたものである。 これぞまさに主権在民であり、真の民主主義と言える。 元々国民あっての国家であり、どちらが主でどちらが客かの問題である。 それに比べて日本はまるで逆の状態であり、国は一見非常に平和であるが国民一人一人は不安感に苛まれている。これこそ主客転倒と言うべきものである。 これは単に国は平和で個人は不安であるのと国は乱れても個人は平安であるの二者択一の問題なのだろうか。
国民一人一人のエゴのコントロールが出来ていれば国の政策も決まり易いが、それが無いと日本の国会の答弁の様に欺瞞的で不毛になり、政策一つ決めるのに常に手間取る結果を招く。 つまり、国のエゴは国益を守る為の国策となり、国民のエゴは利己主義となるのである。 残念乍ら、未だに戦争での殺戮は結果的に許されている状態であるが、今後は国と国とのエゴが益々取り沙汰される時代になると思われ、日本が一国家として諸外国と対等に付き合う為には、日本人も必然的に自力でするエゴのコントロールを余儀無くされるのである。 日本も国際化の波は防げず規制緩和の方向へ進んでおり、これから国民は増々自由競争の波にさらされる事になる。 先頃のリストラの問題にしろ、対策として安易に首を切るという現象が起こり、今迄本来実態の無い会社に忠誠を誓いをそれを守る為に一生懸命働いて来た社員を解雇するという本末転倒の様な状況になってしまっている。 一時は海外からも注目されていた終身雇用制は脆くも崩れ去ろうとしている。 今回の日本の企業に於けるリストラが所謂米国に於けるハイリスク・ハイリターンの自由競争によるものかどうか定かでないが、いずれにせよムラ社会神話の崩壊がすぐそこ迄来ている事は言える。 ここでも日本人のSafety &Securityに対しての無防備さが浮き彫りになって来る。
本来社会も会社も個人の集まりから成り立っている。 何の為の社会か何の為の会社か今一度考え直し、本末転倒、主客転倒を避け、日本独自の解決策が見い出せないものだろうか、それとも均質化の波に押されてしまうのだろうか。 この儘進めば日本人は無防備の儘、国にも守られず社会にも守られないで泣き面に蜂であり、早急に個の確立を急ぎ、自分で自分を守るという国際社会の基本を身に付けないと、踏んだり蹴ったりという状態は避けられない。 果して日本の個の行方は如何に、という切実な問題なのである。 然し、これは逆から言えば柳田國男の言う、自己内部省察の良いチャンスとも言える。 この事は、現在の我が国の立場を観察していれば判る事であり、個人も然りである。 人間は八方塞がり、或いは四面楚歌になった時こそが、チャンスなのであり、それは、外面に拡がれない時には、内面に入り込む事しか出来ないからなのである。 これが、柳田國男の言う、「内省」という物なのである。

2016年8月14日 (日)

【復刻版】科学は宗教ではない、(原文のまま)

平成23年4月11日 

  僕にとって今回の原発事故は再度の敗戦に等しい。 今回の一件にしろ、第二次世界大戦当時の集団ヒステリアと大差ないのではないのか、以前から考えていたのだが、科学そのものが一種の宗教のようなものだと言う事で、科学を過信してる学者が如何に多いかということである。 今回の原発事故で再度考える機会を与えられたが、今はっきりしたことは、戦後天皇の人間宣言と共に拠り所を失った日本人にとって科学そのものが宗教化していたのじゃないかという事である。
  フリーメーソンの起草による日本国憲法の前文に「人類の普遍的原理」とあるが、日本にはこの普遍性追究姿勢が欠如している、つまり、日本には「国是」が無いに等しいのである。 そこで登場したのがアメリカ産のプラグマティズムであり、第二次大戦で優秀な人材を失い残っ二番手の学者共(我が父親を含む)がこぞってこのプラグマティズム所謂「科学教」に入信したみたいなものである。
  これを聖俗未分離、当たるも八卦、当たらぬも八卦、一か八かのホーリズムと呼ばないでなんと呼べばよいのだろうか。 こうしてみると、科学一辺倒の時代に育った僕が、受けた教育と社会との齟齬に如何に振り回されたのか納得が行く。 実は今回の東日本大震災の引き起こした原発騒ぎでこれ以上の追究がもう無駄なのではないのかと思い始めた。 前述の渡辺東大名誉教授の『科学史事始』以来日本の特異体質の更なる追究は止めたものの、国際個人学研究所なんてのをネットに立ち上げ、スティッカムで配信まで始めて、自分の考えを発信し続けたが、馬耳東風、特に2chなんてのは日本の世間の典型であり、匿名でたたかれ続けるのが落ちである。
  先ずは個の確立をして、内なる神を見出す事なんて悠長な事を言っている場合じゃない、近代文明が一神論の背景がなければ機能しない事を忘れるところだった。 少なくとも科学というものは真実が真っ先に来なくては行けない、真実なんて二の次で先ずは美意識からなんてお格好つけてる日本人には所詮無理なのだ。 2chとかけてなんと解く、放射能と解く、その心は、見えない敵、、なんて冗談言っている場合ではない。
  以前バブル全盛の頃、「パールハーバーで失敗したので、今回はハワイを買おうとしている日本人」なんて冗談を飛ばし、ハワイのイミグレーションで「今回の渡布目的は」なんて訊かると、「ハワイを買いに来た」なんて言ってオフィサーと大笑いした記憶が懐かしい、まさにリメンバーパールハーバーである。

【復刻版】今日本人に求められる意識改革(原文のまま)

平成2346

今回の東日本大震災による原発事故程僕の人生にインパクトを与えた出来事はない、日本の特異体質を如実に捉えた実に象徴的な出来事だった。

社会に出て以来、学校で習った事が社会で通用しないと知り、日本は真善美が衣食住に反映されていないと言う疑問を抱き、以来追究し続けて来た、それが和魂洋才に表される輸入の学問いわゆる翻訳文化から来る弊害だとの結論に至った迄は良かったのだが、その先にそれをいみじくも証明するこんな象徴的な出来事が待っている事など想像だにつかなかった。

正直言って僕は原子力がこれ程恐ろしいものだとの認識がなかったのである、毎回原発事故がある度にその隠蔽体質には疑問を持っていたのも確かだが、まさかそこまで同朋が無茶をする等夢にも思わなかったのである。

つまり僕は半生をこの和魂と洋才の齟齬に翻弄されてしまったとも言えるのである、いや日本人全員が翻弄されつつある現在進行形なのかも知れない。

僕は「日本人は輸入した真善美を美善真と勝手に並べ替えて真を一番最後に持って来てしまった」といつも表現するのだが、日本人は美意識先行型で真実が最後に来ると思うと妙に納得が行くのである、つまり真実等二の次で体面、保身の方が大事な隠蔽体質なのである。

日本は国家形成が早く統一規範としての宗教が必要なかったと宗教学者さんは表現するらしいが、所謂宗教改革或いはルネサンスと言うものがなくてここまで至ってしまったので、二元論を唱える人間も不在な為に西洋の聖俗分離と言った科学の発生する土壌が出来なかった。

この前近代的な聖俗未分離状態が一か八かの当たるも八卦当たらぬも八卦と言う危険性を孕んだまま明治維新に近代文明を受け入れてしまったのである。

つまり日本人の原動力(エートス)は正義でもなく、使命感でもない、情緒なのである、善人面した内弁慶の負け惜しみと思って間違いが無いと言っても過言ではない(やっぱ言いすぎかw)。

これが僕が日本人は近代文明学各論は得意だが総論は落第生であると言う所以でもある。

昔から日本は海外の文化を器用に取り入れてここまで発達して来たと言われる、これは揺るぎも無い事実であるが、僕はこれを日本人の都合の良いとこ取りと呼んでいる、良いとこ取りは歓迎されてしかるべきであるが、都合が良ければ悪いところでも取り入れると言うのは頂けない。

ご存知のように第二次世界大戦までは国家神道により天皇を神格化して現人神を創り上げなんとか秩序を保ったが第二次世界大戦という大きな間違いを起こし、敗北の末、天皇も人間宣言をし、フリーメイソンの草案に拠る現在の日本国憲法の下に再出発を余儀なくされたのである。

僕が日本は世間主義人民共和国だと揶揄する通り、日本の自由主義、個人主義は似非であり、それを学者さんは共和主義的個人主義だとか経済的個人主義だとか負け惜しみで呼ぶが、大体個人の自由と言うものは神とのお約束事であって政府とのお約束事ではない、私権の行使と個人の自由を同次元で考えている限り個人の自由を理解することは出来ない。

今回の事故は、この科学の発生する土壌が無かった事に相俟ってそれに更に上乗せして災いしたのが日本人の美意識先行型の国民性なのである。

日本では西洋から学んだ社会は建前であり、本音は昔の世間そのものなのである、一神論の背景の無い日本では正義すら相対的であり、世間そのものが正義なのである、つまり国民は世間の顔色を伺いながら自分の意見は述べないのが日本なのである。

つまり絶対的な規律がある軍隊ならまだしも、正義すら相対化するなかでサラリーマンが原発を運営するのには無理があるのだ、結局長いものには巻かれろなのである。

訊く所に拠るとそう言った中にも内部告発する正義感の強い人間も皆無ではなかったらしいのだが、保安院にちくると即そのまま上司に伝わってしまうので皆びくびくしていたと言う。

今回の大惨事はお隣の中国、北朝鮮ならさしずめ責任者は粛清されている、日本は下手に似非の自由があったものだからもっと始末が悪い、結局与えられた自由は有り難味が薄く身につかない、なぜなら自由は勝ち取るものだからであろう。

教育勅語があった時代の方が平和で秩序が保たれていたなんて、なんと皮肉な事なのか。

今ここで日本人が目覚めなければ日本が世界に取り残される事は必須である、今日本人に必要なのは意識改革であり、原発ではない。

最後にお詫び致しますが、狂四郎今回の大惨事でかなり心を痛めておりますので、推敲もままならず、論理の飛躍、過激な表現等垣間見られるかも知れませんが平にご容赦頂く様にお願い申し上げます、これもひとえに国を愛する気持ちから生じたものとご斟酌下さい。

【復刻版】そして悲劇は起こった

平成2342

日本は観念的に或いは理念的に破綻しているのではないのか、(原文のまま)

今まで毎日のように日本の特異体質について考え、如何にしたらそれをあまねく人に伝えられるかなんて手をこまねいていて、半ば諦め状態でもう笑って誤魔化すっきゃないって「笑いが地球を救う」なんて標語を作っていた矢先に今回の東日本大地震が起きてしまった。

聞くところに拠れば想定外だったと言うのは嘘で明治にもっと大きな津波の被害を受けていたらしい。

日本は既に観念的に行き詰っているのだと思う、つまり和魂洋才の弊害、いわゆるCPUとOSの相性が悪いので、近代文明への対応が今ひとつしっくり行かないのだ。

今回の津波で引き起こされた原発の事故は人災とも言える位に全ての点において対応の甘さが見える、これは基本的な姿勢に問題があるとしか言いようが無い。

特に放射能は目に見えない敵と表現されるように不可視のものであり、即物的な日本人が取り扱うのに無理があるのではないのか、ここに象徴されるのである。 これが池田元久経済産業副大臣の「神のみぞ知る」発言に繋がるのではないのか、聖俗未分離状態の日本の一か八か、all or noneの思考回路で原発を扱うのは危険すぎる程、原発は神の分野なのである。

原子力は人類の叡智であるかも知れないが、日本人の叡智で無い事だけは確かである。

あれだけ、広島に続く、長崎の原爆投下で、嫌と言うほど原子力の恐ろしさは知っている筈の日本人がどうしてここまで考えが甘いのかが理解出来ない。

各国から協力の申し出があってもむげに断ったり、IAEAが避難基準を下回ったと避難勧告を無視し、日本の基準値はもっと精巧だとか言い訳ばかりで逃げるばかり、国民軽視の政策がいまだに取られている。

大体IAEAの事務局長はエルバラダイ氏の後任は日本人の天野氏ではないか、同朋の勧告すら無視する傲慢さは一体どこから出てくるのか。

ひどいところでは、各国から原発対応のロボットの提供があったにもかかわらず、それを扱える人間すらいないと言う、つまりいわゆる原発奴隷を使い捨てした方が費用がかからないと言う、言わば第二次世界大戦における人間魚雷の発想なのである。

そんな事を考えている時に僕が日本の特異体質の追究を止めるきっかけになった、東大名誉教授の渡辺正雄先生の事を書いた、黄ばんだ朝日新聞のテーブルトークと言うコラムの切り抜きを、旧いシステムオーガナイザー(バインデックス)の中に発見した。 するとその中にこんなような記載があるではないか、

「日米開戦の1941年に東大工学部を繰り上げ卒業。海軍の技術科士官を経て、敗戦時には東大第二工学部で応用力学を教える助教授だった。が、47年、その職を辞し、科学史の研究を志す。『日本の科学のあり方への疑問が大きくなってきたんです。戦争に奉仕し、人命もろとも戦艦に体当たりす る特攻機を生み出すような、日本の科学とは何だったのか。明治以来、西洋からの科学の受容の仕方に問題があったのではないか、と』」

今回の他国がこぞって原発用ロボットを開発している時に、東電は非人道的な原発奴隷の使い捨てをやっていたのだ、日本にとってロボット産業はいわゆる精密機械の分野で生き残りを図る為の重要な産業だと言うにも拘わらずだ。

コラムは更に続き、最後には、

「それは、最近の茨城県東海村の臨界事故などにも通じるという。『総合的観点の欠如により、本来人間のための道具であり、人類共通の福利を増進させるはずの科学技術が、人間より優先される本末転倒が今も続いているんです』」と続いている。

【復刻版】日本人の都合の良いとこ取り

平成221212日(原文のまま)

よく言われる事で、日本人は器用に海外の文化を身につけてここまで急速に発展を遂げた、その陰にかなりの犠牲を払っている事も確かである。

良いとこ取りってのはいいけど、都合の良いとこ取りってのは下手したら都合が良けりゃ悪いとこまで取り入れてしまうと言う事で芳しくない。

例えば、全体主義(ホーリズム)にアメリカの合理主義(プラグマティズム)を取り入れた為人間がロボット化して発展を遂げたのは良いのだが、人間がマニュアルに書いてない事が出来なくなってしまったとか、これは僕はひとえに僕の親父の時代の学者が合理化してはいけない教育に真っ先にプラグマティズム(〇×式)を取り入れた為と認識している。

一度親父に最近の若者がものを考えなくなったのは○×式の為じゃないかと言った事があったが、「何を言うかあれは自分たちが考案した画期的なものだ」と言われてがっかりした時もあった。

僕はこれを日本人の都合の良いとこ取りって呼んでるけど、ファーイーストでもない、かと言ってファーウェストでもない、ある時はアジア、ある時は西欧諸国と一緒みたいな恰もイソップの蝙蝠のように見える、どっちつかずってのは幾らなんでもまずい。

僕はひとえに日本は東洋のナチュラリズムでもないし、西洋のヒューマニズムでもない、ちょっと変わった独自のホーリズム、言わば、全体主義みたいなところがあって、All or None つまり全と無の間を行ったり来たりしていると思っている、

昨今の自殺率の上昇、出生率の低下なんて見ても、西洋みたいにAll and One という考えを導き出していれば、これほど迄に個人が追い詰められる事も無いのではないかと思う位である

親が子供に小言を言う時も、ある時は目上の者を敬えって、儒教的だったり、ある時は和をもって尊しとなせって聖徳太子だったり、ある時は何時の隣人を愛せよってキリスト教、行き詰ると、「社会ってこんなもんだよ」、「人生ってこんなもんだよ」って無常論を唱え突然仏教になっちまって、これじゃ子供がまともに育つわけもない。

日本国憲法の前文に「人類の普遍的原理」ってのがあるが、それが都合がわるいのだったら、「あかき、なおき、あおき、ただしき」に変えるなりしてらどうなんだ、国是が無いってのは致命的なんじゃないか、それとも人類の普遍的原理ってのを理解するかどっちかでしょ、

僕はあのK元総理がしたりがおで鼻の穴を膨らませて「俺の考えは人類の普遍的原理に基づいている」とうそぶいた時はさすがに腹が立った、一国の総理とあろう人間が国是を揶揄するってのはどうかと思う。

大体政治家も皆受け狙い、美意識先行型で、『美しい国』 なんて本まで書いた首相もいた、学問を輸入したとき、真善美ってのを勝手に美善真と並べ替えた上、真が三角形の頂点に来るべきものを、一直線に並べてしまったから、日本では真善美が衣食住に反映しなくなってしまったと僕は理解している、日本では真は最後に来ると考えると、納得の行く事も多いのが皮肉だ。

柳田國男も確か、「真はインターナショナルじゃなければいけないが、善と美はナショナルだ」とかかなりこじつけくさい事を書いていたように記憶している。

【復刻版】東日本大震災並びにそれに伴う福島原発事故に想う

 今回の事故は僕が20年来研究していた日本の特異体質が顕著に象徴的に表れた悲劇であった。

 下は未だ事故の起きていない去年の日記だが参考になるので載せてみた。

平成221130日(原文のまま)

考えさせられる、、個と論が欠如する日本で、如何にして聖俗未分離から脱却するか、個論::: 

またまた振り出しに戻ってしまった、 日本は国家形成が早かった為にいわゆる統一規範としての宗教が必要なかった、、、とはさる宗教学者先生の言葉だったと思うが、だからと言って、聖俗未分離、ホーリズム状態のままで良いって訳でもないだろう、駒大の佐々木宏幹先生が、「トランス状態になる必要はないが、皆がシャーマンになる位じゃないければいけない」みたいな事をお書きになっているのを見つけた時、禿同だったのを思い出す、、

日本人は違いを論うのは得意であるが、共通点で括るって事がやけに苦手みたいである、共通項で括るってのは因数分解の基本、科学の基本の要素還元主義であり、これが無いと拡散する一方で一向に収斂するという事が無い、まとまるものもまとまらないのである。

これは何故なのか、右脳と左脳が西洋人と違うなんて言った先生もいたが、右脳と左脳が分離していないコアラ状態なのか、まぁ、日本人は神様と競争するとか、神様の寝室を覗くとかえぐさが無いから、もともと科学の発生する土壌はないのだが、それにしても僕が造語した近代文明学総論は落第であるな、、でも各論は得意だから、面白い、皆そろって日本にも科学はある、こぞってノーベル賞を受賞してるだろうっておっしゃる、でも皆各論でしょ、それに大部分アメリカシチズンじゃないですか?

重要なのは総論であり、科学こそ専門馬鹿を作り出す元凶でもあるのだ、、

だからかのウォルフレンに日本人は論理と理論の違いすら判っていないと言われてしまう、これも翻訳文化の弊害だ、、

平成八年に年頭に当たって、これからは一切女々しい男とは付き合わないと宣言して久しいが、日本人の男性には内弁慶、言い訳ばっか言ってる人間が多い、、実に情緒的なのである、、ちょっと意見が合わなかったりすると、「君には失望した」とか言い出す、

ハワイに居た時、"I dont like mr,kyoshiro but what hes saying is right"といった坊やがいたけど、日本人だったらちょっと意見が合わないだけでさしずめ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い状態になるだろう。

「人生なんかこんなもんだよ」とか「社会なんてこんなもんだよ」とかすぐ無常論を唱える、社会は変えられるものだという意識が希薄だ、嫌だったら変えれば良い、僕は柳田國男が同じような事を書いていたのを見て嬉しかった記憶がある。

つまり日本人には個と論の概念が欠如しているのである、始めに言葉ありきじゃないのである、個も無ければ論もない、この状態でどうして個の確立が図れるのか、

個と論こそ、このホーリズム状態から脱却する鍵であると信じてやまない狂四郎である、、僕が言うところの個論:である。

«霊に導かれ(柳田國男の誕生日を記念して)